夢応の鯉魚

夢応の鯉魚 「雨月物語」1776 by上田秋成(1734〜1809)
原文(全文=長いので飛ばし読みして下さい)

むかし延長(えんちやう)の頃、三井寺に興義(こうぎ)という僧ありけり。絵に巧(たくみ)なるをもて名を世にゆるされけり。嘗(つね)に画(えが)く所、仏像・山水・花鳥(くわてう)を事とせず。寺務(じむ)の間(いとま)ある日は湖(うみ)に小舟をうかべて、綱引釣り(あびきつり)する泉郎(あま)に銭を与へ、獲たる魚をもとの江に放ちて、其の魚の遊躍(あそぶ)を見ては画(えが)きけるほどに、年を経て細妙(くはしき)にいたりけり。

或ときは絵に心を凝(こら)して眠(ねむり)をさそえば、夢の裏(うち)に江に入りて、大小(さばかり)の魚とともに遊ぶ。覚(さむ)れば即(やがて)見つるままを画(えが)きて壁(かべ)に貼(お)し、みづから呼びて夢応(むおう)の鯉魚(りぎよ)と名付けけり。

其の絵の妙(たへ)なるを感(めで)て乞要(こひもと)むるもの前後(ついで)をあらそえば、只花鳥・山水は乞(こふ)にまかせてあたへ、鯉魚の絵はあながちに惜(をし)みて、人毎(ひとごと)に戯(たわむれ)ていふ。「生(しやう)を殺(ころ)し鮮(あさらけ)を喰(くら)ふ凡俗(ぼんぞく)の人に、法師の養(やしな)ふ魚必ずしも与(あた)へず」となん。其の絵と俳諧(わざごと)とともに天下(あめがした)に聞えけり。

一とせ病(やまひ)に係(かか)りて、七日を経(へ)て忽ちに眼(まなこ)を閉ぢ息絶(いきたえ)てむなしくなりぬ。徒弟(とてい)友どちあつまりて嘆き惜しみけるが、只心頭(むね)のあたりの微(すこ)し暖(あたたか)なるにぞ、若(もし)やと居めぐりて守りつも三日を経にけるに、手足すこし動(うご)き出づるやうなりしが、忽ち長息(ながいき)を吐(はき)て、眼(め)ひらき、醒(さめ)たるがごとくに起きあがりて、人々にむかひ、「我人事(じんじ)を忘れて既(すで)に久し。幾日をか過しけん」。衆弟等(しゆうていら)いふ。「師、三日前(さき)に息(いき)たえ給ひぬ。寺中の人々をはじめ、日比(ひごろ)睦(むつ)まじくかたり給ふ殿原(とのばら)も詣(まうで)給ひて葬(はふむり)の事をはかり給ひぬれど、只師が心頭(むね)の暖(あたたか)なるを見て、柩(ひつぎ)にも蔵めでかく守り侍りしに、今や蘇生(よみがへり)給ふにつきて、『かしこくも物せざりしよ』と怡(よろこ)びあへり」。

興義(こうぎ)点頭(うなづき)ていふ。「誰にもあれ一人檀家(だんか)の平(たひら)の助(すけ)の殿(との)の館(みたち)に詣(まゐり)て告(まう)さんは、『法師こそ不思議に生侍(いきはべ)れ。君、今酒を酌(くみ)鮮(あさらけ)き鱠(なます)をつくらしめ給ふ。しばらく宴(えん)を罷(やめ)て寺に詣でさせ給へ。稀有(けう)の物がたり聞えまゐらせん』とて、彼(か)の人々のある形(さま)を見よ。我が詞(ことば)に露たがはじ」といふ。

使、異(あや)しみながら彼(か)の館(みたち)に往(いき)て、其の由をいひ入れてうかがひ見るに、主(あるじ)の助(すけ)をはじめ、令弟(おとうと)の十郎、家の子掃守(かもり)など居めぐりて酒を酌(くみ)ゐたる、師が詞のたがはぬを奇(あやし)とす。助(すけ)の館(たち)の人々此の事を聞きて大いに異(あや)しみ、先ず箸(はし)を止(やめ)て、十郎掃守(かもり)をも召具(めしぐ)して寺に至る。

興義(こうぎ)枕をあげて路次(ろじ)の労(わずら)ひをかたじけなうすれば、助も蘇生(よみがへり)の賀(ことぶき)を述(の)ぶ。興義(こうぎ)先づ問ひていふ。「君、試(こころみ)に我がいふ事を聞かせ給へ。かの漁夫(ぎょふ)文四に魚をあつらへ給ふことありや」。助、驚きて、「まことにさる事あり。いかにして知らせ給ふや」。

興義(こうぎ)、「かの漁夫三尺(みたけ)あまりの魚を籠に入れて君が門に入る。君は賢弟と南面の所に碁を囲みてをはす。掃守(かもり)傍(かたはら)に侍(はべ)りて、桃(もも)の実(み)の大(おほ)いなるを啗(く)ひつつ奕(えき)の手段(しゅだん)を見る。漁夫が大魚(まな)を携(たづさ)へ来(きた)るを喜(よろこ)びて、高杯(たかつき)に盛(もり)たる桃(もも)をあたへ、又盃(さかづき)を給うて三献(さんこん)飲(のま)しめ給ふ。

鱠手(かしはびと)、したり顔に魚をとり出でて鱠(なます)にせしまで、法師がいふ所たがはであるらめ」といふに、助の人々此の事を聞きて、或いは異(あや)しみ、或いはここち惑ひて、かく詳(つぶら)なる言(こと)のよしを頻(しきり)に尋(たづ)ぬるに、興義(こうぎ)かたりていう。

「我(われ)、此の頃病にくるしみて堪(たへ)がたきあまり、其の死(しし)たるをもしらず、熱(あつ)きここちすこしさまさんものをと、杖(つゑ)に助けられて門を出づれば、病もやや忘れたるやうにて、籠(こ)の鳥(とり)の雲井にかへるここちす。山となく里となく行きゆきて、又江の畔(ほとり)に出(い)づ。

湖水(こすい)の藍(みどり)なるを見るより、現(うつつ)なき心に浴(あび)て遊びなんとて、そこに衣(ころも)を脱去(ぬぎすて)て、身を躍らして深きに飛び入りつも、彼此(をちこち)に游(およぎ)めぐるに、幼(わかき)より水に狎(なれ)たるにもあらぬが、慾(おも)ふにまかせて戯(たはぶ)れけり。今思(おも)へば愚(おろか)なる夢ごころなりし。

されども、人の水に浮かぶは魚(うお)のこころよきにはしかず。ここにて又魚の遊びをうらやむこころおこりぬ。傍(かたはら)にひとつの大魚(まな)ありていふ。『師のねがふ事いとやすし。待たせ給へ』とて、杳(はるか)の底(そこ)に去(ゆく)と見しに、しばしして、冠装束(かむりそうぞく)したる人の、前(さき)の大魚(まな)に跨(また)がりて、許多(あまた)の鼇魚(うろくづ)を牽(ひき)ゐて浮かび来たり、我にむかひていふ。

『海若(わたづみ)の詔(みことのり)あり。老僧かねて放生(はうじゃう)の功徳(くどく)多し。今江に入りて魚の遊躍(あそび)をねがふ。権(かり)に金鯉(きんり)が服(ふく)を授(さづ)けて水府(すいふ)のたのしみをせさせ給ふ。只餌(ゑ)の香(かん)ばしきに眩(くら)まされて、釣りの糸にかかり身を失ふ事なかれ』といひて去りて見えずなりぬ。

不思議のあまりにおのが身をかへり見ればいつのまに鱗金光を備へてひとつの鯉魚と化しぬ。あやしとも思はで、尾を振り鰭を動かして心のままに逍遥す。

まず長等の山おろし、立ちゐる浪に身をのせて、志賀の大湾(おほわだ)の汀に遊べば、徒歩(かち)人の裳(も)のすそぬらすゆきかひに驚されて、比良の高山影うつる、深き水底に潜(かづ)くとすれど、かくれ堅田の漁火によるぞうつつなき。ぬば玉の夜中の潟にやどる月は、鏡の山の峰に清て、八十の湊の八十隈もなくておもしろ。
沖津島山、竹生島、波にうつろふ朱(あけ)の垣こそおどろかるれ。さしも伊吹の山風に、旦妻船も漕出づれば、芦間の夢をさまされ、矢橋の渡りする人の水(み)なれ棹をのがれては、瀬田の橋守にいくそたびか追はれぬ。日あたたかなれば浮かび、風あらきときは千尋の底に遊ぶ。

急(にはか)にも飢(うゑ)て食(もの)ほしげなるに、彼此(をちこち)に求食(あさ)り得ずして狂ひゆくほどに、忽ち文四が釣りを垂(たる)るにあふ。其の餌(ゑ)ははなはだ香(かんば)し。心又河伯(かはのかみ)の戒(いまし)めを守りて思ふ。我は仏(ほとけ)の御弟子なり。しばし食(もの)を求め得ずとも、なぞもあさましく魚の餌(ゑ)を飲(のむ)べきとてそこを去る。

しばしありて飢(うゑ)ますます甚(はなはだ)しければ、かさねて思ふに、今は堪(たへ)がたし。たとへこの餌(ゑ)を飲(のむ)とも鳴呼(をこ)に捕(とら)れんやは。もとより他(かれ)は相識(あひしる)ものなれば、何のはばかりやあらんとて遂(つひ)に餌(ゑ)をのむ。文四はやく糸を収(をさ)めて我を捕(とら)ふ。『こはいかにするぞ』と叫(さけ)びぬれども、他(かれ)かって聞かず顔にもてなして縄(なは)をもて我が腮(あぎと)を貫(つら)ぬき、芦間(あしま)に船を繋(つな)ぎ、我を籠(かご)に押し入れて、君が門に進み入る。君は賢弟(けんてい)と南面(みなみおもて)の間に奕(えき)して遊ばせ給ふ。掃守(かもり)傍(かたはら)に侍(はべ)りて菓(このみ)を啗(くら)ふ。

文四が持て来し大魚(まな)を見て人々大(おほ)ひに感(めで)させ給ふ。我、其のとき人々にむかひ、声をはり上げて、『旁(かたがた)等は興義(こうぎ)を忘れ給ふか。宥(ゆる)させ給へ寺に帰させ給へ』と連(しき)りに叫びぬれど人々しらぬ形(さま)にもてなして、只手を拍(うつ)て喜び給ふ。鱠手(かしはびと)なるもの、まづ我が両目を左手(ひだり)の指(おゆび)にてつよくとらへ、右手(みぎり)に礪(とぎ)すませし刀(かたな)をとりて俎板(まないた)にのぼし既に切るべかりしとき、我苦しさのあまりに大声をあげて、『仏弟子(ぶつでし)を害(がい)する例(ためし)やある。我を助けよ、我を助けよ』と哭叫(なきさけ)びぬれど、聞き入れず。終(つひ)に切らるるとおぼえて夢醒(ゆめさめ)たり」とかたる。

人々大(おほ)いに感異(めであや)しみ、「師が物がたりにつきて思ふに、其の度ごとに魚の口の動(うご)くを見れど、更に声出だす事なし、かかる事まのあたりに見しこそいと不思議なれ」とて、従者(ずさ)を家に走(はしら)しめて残れる鱠(なます)を湖(うみ)に捨てさせけり。

興義これより病癒(いえ)て杳(はるか)の後、天年(よはひ)をもて死(まかり)ける。其の終焉(をはり)に臨(のぞ)みて画(ゑが)く所の鯉魚数枚(すまい)をとりて湖(うみ)に散(ちら)せば、画(ゑが)ける魚紙繭(しけん・かみぎぬ)をはなれて水に遊戯(いうげ)す。ここをもて興義が絵世に伝はらず。其の弟子成光(なりみつ)なるもの、興義(こうぎ)が神妙(しんめう)をつたへて時に名あり。閑院(かんゐん)の殿(との)の障子(しやうじ)に鶏(にはとり)を画(ゑがき)しに、生(いけ)る鶏(とり)この絵を見て蹴(け)たるよしを、古き物がたりに載(のせ)たり。

↑江戸時代中期 葛蛇玉(「夢応の鯉魚」の興義のモデルとされる大阪の絵師)の作品

現代語訳

 昔、延長(西暦923年~931年)のころ、三井寺に興義という僧がいた。絵が上手なのをもって名人だと世間で評判であった。彼が常々描いていたのは、ふつうの画家のように仏像・山水・花鳥を主とはしていなかった。寺の務めの暇がある日には、湖(琵琶湖)に小舟を浮かべ、網引釣りをしている漁師に金銭をやって、捕れた魚をもとの湖にかえして、その魚が泳ぎ回るのを見てはそれを描いていたので、年月を経て(魚の絵を描く技術は)精細巧妙の域に達した。あるとき、絵のことに思いを凝らして心が憑かれ、思わず眠気をもよおしたので、まどろんでいるうちに夢の中で自分が湖水の中に入って大小の魚と一緒に遊ぶのを見た。目が覚めたので、すぐに(夢で)見たとおりの様子を描いて壁に貼り、自分で「夢応の鯉魚」と名付けた。
その絵がとても優れているのに感心して、(興義の絵を)欲しがる者が殺到したので、(興義は)花鳥・山水の絵を求める者にはただ描き与えたが、鯉の絵だけは一途に惜しんで与えず、誰に向かっても冗談っぽくこう言うのだった。
「(仏教で禁じられている)殺生をして鮮魚を食べている世俗の方には、法師(=私)が養っている魚を決して差し上げられない。」
と。この絵と冗談は、ともに世間の話題となった。

 (興義が)ある年病気になって、七日経って突然目を閉じると息が止まって亡くなってしまった。弟子や友達が集まって嘆き悲しんだが、ただ胸の辺りが少し暖かいのに、「もしや(生き返るのでは)」と取り巻いて見守りながら三日過ごしたところ、手足が少し動き出すようになったと思うと、すぐにため息をついて、目を開いて、眠りから覚めたように起き上がって、人々に向かって言った。
「私はずいぶん人間界のことを忘れていた(=正気を失っていた)。何日が経ったのだろうか。」
弟子達は言った。
「法師様は三日前にお亡くなりになった。寺中の人々をはじめ、普段から親しくしている方々もいらして葬儀のことも相談なさったけれど、ただ法師様の胸が暖かいのを見て、棺にも納めずにこのように見守り申し上げていたところ、たった今生き返りなさったところなので、『よくぞ葬儀してしまわなかったことだよ』と喜び合っているところでした。」
興義はうなずいて言った。
「だれでもよいから、檀家の平の助の殿のお屋敷へ参上して申し上げなさい。『興義が不思議なことに生きていました。殿はいま酒を酌み、新鮮ななます(和え物)を作らせなさっているでしょう。少しの間その宴をやめて寺へいらっしゃってください。世にも稀な物語を申し上げたい。』こう言って、先方の人々の様子を見なさい。私が言ったことに少しも違いあるまい。」
と。使いに立った者は不思議に思いながら、(平の助の)屋敷へ行って、興義からの言づてを伝え、人々の様子を窺い見ると、主人の助をはじめ、弟の十郎、家臣の掃守などが輪になって酒を酌み交わしているではないか。法師の言葉どおりなのを(使いの者は)不思議に思った。屋敷の人々もまた、このことを聞いて大いに不思議がり、(平の助たちは)まず箸を置いて十郎と掃守も引き連れて寺へやって来た。

 興義は枕から頭を上げてはるばるやって来てくれたことの礼をいったところ、助も(興義が)生き返ったことのお祝いをいった。興義がまず(助に)聞いていった。
「殿、ためしに私の言うことをお聞きください。(あなたは)あの漁師の文四に魚を注文なさったことがあるのではないか。」
助は驚いて、
「たしかにそういうことがあった。どうしてご存知なのか。」
興義は応えて言った。
「あの漁師が3尺(=約90cm)の魚を籠に入れて、あなたの屋敷に入ったでしょう。殿はそのとき、弟君と表座敷で碁を囲んでいらっしゃった。掃守がそのそばに座って、大きな桃を食べながら碁の勝負を観戦していた。漁師が大きな魚を持ってきたのを喜んで、高坏に盛った桃を与えて、さらに杯を与えてお酒を3杯(=たくさん)飲ませなさった。料理人は得意顔で魚をとり、なますにした。ここまで、法師(=私、興義)のいうことに間違いはないでしょう。」
というと、助の家の人々はこのことを聞いて、ある者は不思議に思い、ある物は困惑して、(興義が)このように詳しく語るその理由をしきりに尋ねるので、興義はこう語った。

 「わたしはこの頃病気に苦しんで耐え難いあまり、自分が死んでしまったのも知らず、熱があるのを少し冷ましたいものだと、杖に寄りかかりながら門を出たところ、病気のことも忘れたようで、籠の鳥が大空へ帰るような(すがすがしい)気持ちがした。山となく里となく行き進んで、いつものとおり琵琶湖の畔へ出た。水の色が青く美しいのを見ていると、夢見心地で、水浴びして遊ぼうと思って、そこに服を脱ぎ捨てて、身を躍らせて深いところへ飛び込んであちこちと泳ぎ回ったが、子供の頃から泳ぎになれているわけでもないのに、思うがままに(水中で)遊んだ。今思うと思慮のない夢心地だったのだ。しかし人が水に浮かんでいるのは、魚が(水中で泳いで)気持ちがよいことには及ばない。ここでさらに私の中に魚の泳ぎ遊ぶのを羨む気持ちが起こった。そのとき、そばに大きな魚がいて言った。
『法師の願い事はとても簡単なことだ。お待ちください』
といって、はるか水底へ去っていったと思うと、しばらくして、冠や装束で身を包んだ人が、さきほどの魚にまたがって、たくさんの魚たちを連れて浮かんできて、私に向かって言った。
『海の神のご命令があった。老僧(=興義)はかねてから捕らえられた生き物を放すことで功徳が多い。今、(興義は)水中に入って魚の遊びをしたいと願っている。少しの間だけ金の鯉の服を授けて水中の世界を巡る楽しみを味わわせてあげましょう。ただし、餌が香ばしいのにくらまされて、釣りの糸にかかって身を滅ぼさないように』
と言って去って行き見えなくなってしまった。不思議なあまり、自分の身体を顧みると、いつのまにか鱗と金色の光備えた一匹の鯉になっていた。奇妙なことだとも思わず、尾を振ってひれを動かして、思うままに気ままに泳ぎ回った。
まずは長等山の山おろしに吹かれて立ち騒ぐ波に身を乗せて、志賀の浦の渚に泳いでいくと、徒歩でゆく人が着物の裾を濡らす(ほど水面近くで)行き交うのに驚かされて、比良の高い山影が映る深い水底に潜ろうとするも、隠れがたく、堅田の漁り火に引き寄せられるのは夢のようだった。真っ暗闇の夜中の湖上に映る月は、鏡山の峰に鑑のように澄みわたり、たくさんの港をくまなく照らして趣深い。沖の島から竹生島へ泳いでいくときに波に映る丹塗りの垣には実にびっくりした。そうしているうちに伊吹山から吹き下ろす風に、朝妻の渡り船もこぎ出したので、いつの間にか葦の間で眠っていたのを覚まされ、矢橋の渡し船の船頭があやつる水なれ棹から身をかわし、瀬田の橋守りに何度か追い立てられたりもした。日ざしが暖かなときは水の上に浮かび、風がひどいときは深い水底で遊んだ。
(そうしているうちに)急に空腹で食べ物がほしくなり、あちこち探すが手に入れられず狂ったようになっていたところ、突然文四が釣り糸を垂れているところに行き当たった。その餌はとても香ばしい。また、心に海神の戒めを忘れずに思った。
『私は仏の御弟子だ。少々食べ物を手に入れられなくとも、どうしていやしく魚の餌を食べることができようか。(いや、そんなことはできない)』
と思ってそこを去った。しばらくして飢えがますますひどくなってきたので、再び思うことには、
『もう今は耐えがたい。たとえこの餌を食べたとしても、愚かに捕らえられることはあるまい。もともと文四のことは知っているのだから、何をためらうことがあろうか』
と思って、ついに餌を食べた。文四は素早く糸を引いて私を捕まえた。
『これはいったい何をするんだ』
と叫んだけれど、文四は聞こえない様子で(私を)つかみ、縄で(私の)エラを貫き、葦の生えた岸辺に船を繋ぎ止め、私を籠に押し入れて、殿のお屋敷の門へ進んで入った。平の助は弟ぎみと碁の勝負をして楽しんでいらっしゃった。掃守がそばに座って果物を食べている。文四が持ってきた大きな魚を見て、人々はおおいに褒めなさった。私はそのとき人々へ向かって、声を張り上げて
『あなたたちは興義のことを忘れなさったのか。お許しになってください。寺へお返しになってください。』
と何度も叫んだけれど、人々はなにも知らぬ様子であしらい、ただ手をたたいて喜びなさる。料理人はまず私の両眼を左手の指で強くつかみ、右手に研ぎ澄ませた刀を取って、まな板の飢えにのせて今にも斬りかかったとき、私は苦しさのあまり大声を上げて
『仏弟子を殺すなんてことがあるものか。私を助けてくれ、助けてくれ』
と泣き叫んだのだが、聞き入れてくれない。ついに切られると思ったところで夢が覚めた。」
という。

 人々は、大いに感動し不思議に思って、
「法師様の物語について考えてみると、そのたび(=法師様が口をきくたび)に魚の口が動くのを見たけれど、とくに声を出すことはなかった。こんなことを目の当たりに見たことは、とても不思議なことだなあ。」
といって、使いを家に走らせて、残っていたなますを湖に捨てさせた。

 興義はこれ以降病気が治って、ずっと経ってから寿命を全うして亡くなった。その亡くなった際に、(興義が)描いた鯉の絵数枚を取って湖に散らしたところ、描いた魚が紙から抜け出して水の中を泳いでいってしまった。このために、興義の絵は後世に残らなかった。興義の弟子の成光という者が、興義の神懸かった技を受け継いで名を馳せた。(成光が)閑院内裏の障子に鶏の絵を描いたところ、生きた鶏がこの絵を見て(本物だと思って)蹴ったということが、古い物語(=古今著聞集)に載っている。

 

 

以上二階の窓から より全て引用。

 

 

三島由紀夫は、以下のくだりを絶賛している。

まず長等の山おろし、立ちゐる浪に身をのせて、

志賀の大湾(おほわだ)の汀(みぎは)に遊べば、

徒歩(かち)人の裳(も)のすそぬらすゆきかひに驚されて、

比良の高山影うつる、深き水底に潜(かづ)くとすれど、

かくれ堅田の漁火によるぞうつつなき。

ぬば玉の夜中の潟にやどる月は、

鏡の山の峰に清て、八十の湊の八十隈もなくておもしろ。

沖津島山、竹生島、波にうつろふ朱(あけ)の垣こそおどろかるれ。

さしも伊吹の山風に、旦妻船も漕出づれば、芦間の夢をさまされ、

矢橋の渡りする人の水(み)なれ棹をのがれては、

瀬田の橋守にいくそたびか追はれぬ。

日あたたかなれば浮かび、風あらきときは千尋の底に遊ぶ。

 

三島は、この件(くだり)を「秋成の企てた究極の詩」と、次のように賛えている。

>>>この鯉魚の目には孤独で狂ほしい作家の目が憑いてゐはすまいか。

湖の水にその網膜の狂熱を冷やされて、一瞬の夢幻の偸安を許された魂が

ありのままに見た自然が展開するのである。

魂の安息日が、この鯉の見た湖水のなかに息づいてゐるではないか。

羈束をのがれた一個の生命が、深く透明な存在の奥底を、

やすらかな愉楽をこめて覗き見る眼差が目に見えるやうではないか。>>>

 

筆者註↓

偸安:かりそめの安逸

羈束:ほだし、束縛、係累

 

僕は富山県出身で、18才から京都市左京区に44年間住んでいるが、

47都道府県の中で、滋賀県が一番好きだ。

中学3年の4月に「夢応の鯉魚」を読んで以来、時折、

このくだりを思い浮かべて、夢応の鯉魚になって、

琵琶湖や瀬田川を泳ぎ回る。

 

滋賀県が好きな理由は自分でもよく分からないのだが、

先祖の一系統が滋賀県出身だからかもしれない。赤尾家 ファミリーヒストリー

 

芭蕉も晩年、近江を、たいそう気に入ったようだ。幻住庵記

司馬遼太郎の『街道をゆく』の第一巻は、歴史の国近江(滋賀)から始まる。

 

今年は、NHK大河ドラマ「麒麟が来る」の最終回が2月7日までずれ込んだが、

「麒麟が来る」のオープニングタイトルの景色↓

 

↑の画像が、奥琵琶湖の葛篭尾崎:つづらおさきではないかと思った。

明智光秀は坂本城主でもあるし、近江の景色に違いないと、1年余りの間、思っていたのだ。

そして、2月の天気の良い日に、このビューポイントを探しに、奥琵琶湖に行ってきた。↓

↑葛篭尾崎

良いラインが出ているのだが、調べてみるとオープニングタイトルのロケ地は、

茨城県の「林野庁関東森林管理局茨城森林管理署」だというのだが。

茨城県の海岸線には、の景色が無いし、

霞ヶ浦には、切り立った湖岸は無いはずだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

記:野村龍司

 

 

 

 

 

 

 

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