芭蕉は、越中で、有磯海の句を残している。
越中黒部で、7月13日に詠んだ
早稲の香や わけ入る右は 有磯海 芭蕉
ザワワザワワと揺れる穂波で、北陸道の海側も、豊作の予感がする。
僕は、この句にこそ、あいの風を感じる。
そして、収穫直前の稲穂の黄金の波が見える。
これは、前回あいの風とは何ぞやで、
あいの風とは『夏の昼間の穏やかな海風である』という
補助線を引くことにより、感じられたのだ。
越後出雲崎で、7月4日に詠んだ
荒海や 佐渡に横たふ 天河 (天の川) 芭蕉
越後出雲崎は、佐渡まで直線距離30km、
昼でも島は、滅相見えない。
天の川ということは夜で、
佐渡は4日の月明かりでは見えないが、
あと3日で七夕。(旧暦は日付=月齢)
しかし荒海なので、ゴロゴロザッバ〜ン
ドゥ~~ンという浪の音が聞こえる。
・・・心の耳を澄ませば。
夜空に雲が少ないのだろう、この波浪も、
オホーツクから来たうねりかもしれない。※
このように、心を研ぎ澄まして、
あいの風・稲穂の波や浪の音を感じる事が、本稿(蕉風俳諧)の主題である。
(前回ブログ:あいの風とは何ぞや?
※波というのは、位相が伝播するだけなので、
物質が水平移動するわけではない。⇔海流)

森川許六画
芭蕉と曽良は、奥の細道の旅も後半。(主目的地は、松島と象潟だった)
7月12日には、糸魚川から親不知を越え、市振で一泊した。
越中2泊3日全文を以下に引用>>>
今日は親不知子知らず犬もとり駒返しなどいふ北國一の難所をこえて
つかれ侍れば枕引よせてねたるに
一間へだてゝ西の方に若き女の聲二人ばかりと聞ゆ
年よりたる男の聲も交りて物語するをきけば
越後國新潟といふ處の遊女なりしいせ參宮するとて此關まで男の送りて
あすは古鄕にかへす文したゝめてはかなき言傳などしやる也
白波のよする渚に身をはふらかしあまのこの世を淺ましう下りて
定めなき契日々の業因いかにつたなしと物いふをきゝ・・・ねいりて
朝たび立に我らにむかひて行衞しらぬ旅路のうさ餘り覺束なうかなしく侍れば
見へがくれにも御跡をしたひ侍ん衣のうへの御情に
大悲のめぐみをたれて結緣せさせ給へと泪を落す
不便の事には侍れども我らは所々にてとまるかた多し
たゞ人の行くにまかせて行くべし
神明の加護必ずつゝがなかるべしといひすてゝ出つゝ哀さしばらくやまざりけらし
一家に 遊女も寢たり 萩と月
曾良にかたればかきとゝめ侍る
くろべ四十八か瀨とかや數しらぬ川をわたりてなごといふ浦に出づ
擔籠(たご)の藤浪は春ならずとも秋の哀とふへきものをと人に尋ぬれば
これより五里ばかり(磯)つたひして
むかふの山陰に入り蜑の苫ぶき幽かなれば芦の一夜の宿かすものあるまじ
といひをどされて加賀のくにゝ入る
わせの香や 分入右は 有磯海
>>>引用終わり
市振では、遊女が自身の境涯を、浅ましく、つたないと隣の部屋で嘆く。
翌朝、一人旅の遊女は伊勢参りの方向が同じなので、僧形の芭蕉に同道を懇願する。
芭蕉は、遊女を不憫と思いつつも、
我らは、処々止まる所が多いのでと言い訳して、以降の案内を断っている。
市振の句(萩と月)は、曾良が書き記すというが、
曾良の日記(↓末尾記載)にはなくて、芭蕉の創作と言われる。
一つの理由は、大変几帳面な、曽良の随行日記に記録がないこと。
もう一つの理由は、遊女が新潟からお伊勢参りするなら、
糸魚川からは親不知(北國一の難所)を避けて、姫川沿いの
千国街道を小谷~大町~松本~塩尻~木曽路へと行くのが普通で、親不知を通るコースが現実的ではないからだ。
さて、市振から旧北陸道を海沿いに西に行くと、
笹川を渡った辺りで、北陸道が海岸線から一旦離れる。
渡河が続く時、河口より少し上流は、川幅が狭くて渡り易いためだ。
その海側が早稲田だった。
早稲の香や 分入右は 有磯海
黒部48ケ瀬を渡った後は、7月13日夜、滑川に一泊。
那古の浦で道を尋ね、擔籠(担籠:たご)の藤浪に、心惹かれながらも、
海岸線から離れて向きを変え、14日夜、高岡で一泊。
卯の花山倶利伽羅峠を越えて、15日未の刻には加賀津幡に着く。
その間、越中では、1句(有磯海の句)しか詠んでいない。
芭蕉は越中國市振と記すが、親不知を越えても、
市振は越後國(新潟県糸魚川市)で、関所は市振の西。
越中では、富山にも寄らず、滑川と高岡で2泊だ。
7月15日(新暦8月29日)は旧暦なので、満月。
『奥の細道』では、芭蕉と曾良が越中を通過する頃が一番いい季節だったが、
満月および、立山を詠んだ歌が無い!
草枕 旅にしあれば、
ゆくへ定めぬ波枕 今日は輪島か金沢か
擔籠浦(たごのうら) あしのかりねの一夜ゆえ、
星空見上げて野宿してもよかったはずだ。
富山湾を望む那古(奈呉)の浦(富山県射水市)の初秋は、
越後の荒海とは打って変わって穏やかだ。
そして何と、「おくのほそ道」での越中の描写はここで終わり。
芭蕉は、越中は加賀と違って、文人墨客・縁者が少ないと思っていたフシがある。
従って、頼る人もなく句会もなく、越中は歌枕や名所のみが魅力だったが、その
擔籠(たご)の藤浪(氷見市)の魅力を語りながら、結局は行かず、加賀の国に入る。
那古(奈呉)の浦(現在の新湊:当時放生津潟)で、芭蕉に道を尋ねられた地元の人が、
「担籠たごいうたら、こっから磯づたいに、
向こうの山陰やまかげに入った辺りまで、五里ほどあれど、
藤ちゃ、咲いとらんねけ(越中でも呉西の言葉)、
あの辺な、海人の苫屋もないがいぜ。
泊めてくれるっさんも、な〜んおられんがいちゃ」
と言ったらしい。
もし、「たごちゃあ、こっから、磯づたいに、五里ほどあってなも、
藤波や、時期でちゃなかれど、
海越しに、立山眺められりゃ、いいがやぜ。
明日時分満月だもんに、野宿しられてもいいがなら、
せっかく遠いとこから来られたがだもんに、
あんたらちみたいみゃーらくもんな、行ってこられま(せ)」※
と、氷見行きを推奨していたら、、、、、、。
※みゃーらくもん=見歩く者=何事にも興味を持って見聞の広い人
僕が代わりに、氷見市擔籠(たご)の藤浪に寄ったとして、

氷見市松田江浜から、立山連峰を望む(新湊大橋も写っている)。 放生津潟(越ノ潟:新湊大橋)との間に山陰(二上山の裾)が見える。
白扇の 松田江浜に 銀屏風 俺っちゃ (おらっちゃ)
太刀の嶺に 望月明りて 擔籠浦 (たごのうら) 俺っちゃ (太刀の嶺=立山連峰=銀屏風)
きれいでしょ?
景勝とは対極に、暗くて重い句↓
荒海や 佐渡に横たふ 天河
打ち寄せる波の音がしばしば響いてきて、胸が締め付けられるようで、
無性に悲しみがこみ上げてくるのでなかなか寝付けなかった。
そこで詠んだのが 荒海や、、、の句であると、芭蕉は後に「銀河の序」で述べている。
出色の名文なので、全文を引用する。
>>>「 銀河の序」
北陸道に行脚して、越後の国出雲崎ちいふ所に泊まる。
彼(かの)佐渡がしまは、海の面十八里、滄波(そうは)を隔て、東西三十五里に、よこおりふしたり。
みねの嶮難(けんなん)の隈隈まで、さすがに手にとるばかり、あざやかに見わたさる。
むべ此嶋は、こがねおほく出て、あまねく世の宝となれば、限りなき目出度島にて侍るを、
大罪朝敵のたぐひ、遠流(おんる)せらるるによりて、
ただおそろしき名の聞こえあるも、本意なき事におもひて、
窓押開きて、暫時(ざんじ)の旅愁をいたはらんむとするほど、
日既に海に沈で、月ほのくらく、銀河半天にかかりて、星きらきらと冴たるに、
沖のかたより、波の音しばしばはこびて、たましいけづるがごとく、腸ちぎれて、
そぞろにかなしびきたれば、草の枕も定らず、
墨(すみ)の袂(たもと)なにゆへとはなくて、しぼるばかりになむ侍る。
あら海や佐渡に横たふ天河
>>>引用終わり。
大意:
出雲崎に泊った芭蕉は、日没後の海を眺めている。
佐渡は金山で有名だが、流人の嶋である。
波の音を聞いて旅愁に浸るが、魂が削られるような思い(胸が締め付けられるような思い)
断腸の思いがこみ上げて来て無性に悲しく、寝つくことができず、
墨染の袂を絞るほど涙が溢れた。//
佐渡は流刑地であり、囚人を使役して、金銀の採掘が盛んだった。
(金銀共に当時世界一の産出量で、佐渡島は徳川幕府直轄領)
天の川を隔てた天涯孤独な宇宙の星ですら、年に一度の逢瀬があるというのに、
遊女でさえ、休暇をもらって伊勢参りに行ったり、故郷へ便りを出したりも出来るというのに、
佐渡の流人は、ほぼ終身刑で重労働の上 口封じもあって、一生 島から出られないだろう。
大罪朝敵のたぐひとは、兇悪犯ではなく、主に政治犯・思想犯の事を言っているのだろう。
(しかし、承久の乱で佐渡に流された順徳天皇は朝廷であり、朝敵ではない。日蓮も朝敵ではない。)
出雲崎と佐渡島との、海上18里の懸隔は、銀河の何万光年よりも遠いのだ。
当時の金精錬は、水銀アマルガム(猛毒)を使用し、
水銀中毒(水俣病)・採掘中の落盤などの労働災害が多発した。
島の流人は、同じ天の川を見上げて、
帰れる事のない故郷を思(い、死んでい)っただろう。
芭蕉は、そういう終身受刑者流人の境遇や、
金を巡っての世俗の欲望や諍いを思って眠れず、
鬱々と荒波の音を聞いた。
現代天文学で、夏に北西(佐渡の方角)に、天の川がかかることはないというので、
氷見からは、東南東の立山連峰を詠んで、一句。
松田江の 遥かな峰に 銀の河 (galaxy) 俺っちゃ
この句は、
荒海や 佐渡に横たふ 天河 (milky way)
と、対の句で、銀の河=galaxy=milky way=天河 である。
しかし、
白扇の 松田江浜に 銀屏風
にしても、
太刀の嶺に 望月明りて 擔籠浦
にしても、
「俺っちゃ」の句は、いずれも、風景を切り取っただけなので、
ザッバ〜ンという浪の音が腑(はらわた)に響いたりしない。
↑の写真のようで、視覚的な映像の他に、味わいが少ない。
そこで、芭蕉の凄さ(芸術性)が、解るのというもので、
天の川が、どの方角に掛かろうが、
横たふが自動詞か他動詞かなどという議論は、どうでもいいのだ。
僕は、この度↑「銀河の序」や「幻住庵記」といった芭蕉の散文が、
大変な名文であること、つまり、芭蕉の知性を今更乍ら発見した。
比喩が巧みで、一定のリズムと調和がある。
そう思って、市振の条(くだり)を、創作として読み返すと、
一遍の短編小説と、言えなくもない。
実際「おくの細道」(俳句50句)を、
一種連歌と見立てるなら、序破急の破であり
市振の条が、丁度よい色添え(色模様)となっている。
対象を描いている体でありながら
(名所旧跡を訪ね歩く紀行文の体裁で)
一方で、自らの来し方行く末はどうなんだと、
自問する機会でもあり、※
同時にそれは、「おくのほそみち」に旅立った時から
一貫するテーマでもある。
荒海や 佐渡に横たふ 天河 ど~ん//

腸(はらわた)に響け〜
※
♪僕は どうして 生きて行こう
from「岬めぐり」by 山本コータロー
♪私は 今日迄生きてみました
from「今日までそして明日から」by吉田拓郎
「市振の条」は、話型が「伊豆の踊り子」by川端康成に踏襲されている。
小説であるからには、そこに、生きることの葛藤があるのだ。
曾良の随行日記 七月
○四日 快晴。風、三日同風也。辰ノ上刻、彌彦ヲ立。弘智法印像為レ拝、峠ヨリ右へ半道斗行。谷ノ内、森有、堂有、像有。二三町行テ、最正寺ト云所ヲノズミト云濱へ出テ、十四五丁、寺泊ノ方ヘ來リテ左ノ谷間ヲ通リテ、國上へ行道有。荒井ト云、鹽濱ヨリ一リ計有。寺泊ノ方ヨリハワタベト云所ヘ出テ行ク也寺泊リノ後也。一リ有。同晩、申ノ上刻、出雲崎ニ着、宿ス。夜中、雨強降。
○○○中略○○○
○十二日 天氣快晴。能生ヲ立。早川ニテ翁ツマヅカレテ衣類濡、川原暫干ス。午ノ尅、糸魚川ニ着、荒ヤ町、左五左衞門 ニ休ム。大聖寺ソセツ師言傳有。母義、無事ニ下着、此地平安ノ由。申ノ中尅、市振ニ着、宿。
○十三日 市振立。虹立。泊ニテ玉木村。市振ヨリ十四五丁有。中・後ノ堺、川有。渡テ越中方、堺村ト云。加賀ノ番所有。出手形入ノ由。泊ニ至テ越中ノ名所少ゝ覺者有。入善ニ至テ馬ナシ。人雇テ荷ヲ持せ、黑部川ヲ越。雨ツヾク時ハ山ノ方ヘ廻ベシ。橋有。壹リ半ノ廻リ坂有。晝過、雨聊降晴。申ノ下尅滑河ニ着、宿。暑氣甚シ。
○十四日 快晴。暑甚シ。冨山カヽラズシテ(滑川一リ程來。渡テトヤマヘ別。)、三リ、東石瀬野(渡シ有。大川。四リ半、ハウ生子(渡有。甚大川也。半里計。)氷見ヘ欲レ行、不往。高岡ヘ出ル。二リ也。ナゴ・二上山・イハセノ等ヲ見ル。高岡ニ申ノ上刻、着テ宿。翁、氣色不勝。暑極テ甚。少□同然。
○十五日 快晴。高岡ヲ立。埴生八幡ヲ拝ス。源氏山、卯ノ花山也。クリカラヲ見テ、未ノ中刻、金澤ニ着。京や吉兵衞ニ宿かり、竹雀・一笑ヘ通ズ。艮刻、竹雀・牧童同道ニテ來テ談。一笑、去十二月六日死去ノ由。
以下、筆者註
辰ノ上刻=7時
申ノ上刻=15時 この日(7月4日)の夜中、雨強降。・・・とても、佐渡や天の川は、見られない。
午ノ尅=正午
申ノ中尅=16時 芭蕉が、早川の浅瀬を渡河中に転んで、ずぶ濡れになる。
申ノ下尅=17時
堺=境 境川が越中と越後を分ける。
渡テトヤマへ別=常願寺川を渡った所に富山方面への別れ道(Y字交叉点)が有る。
石瀬=イハセ=岩瀬
渡シ有大川=神通川
ハウ生子=放生津 1689年当時から、海退と干拓とで、放生津潟は
渡し船で渡ったが、曾良は幅2km程もある大河だと思ったらしい。
(甚大川也。半里計)現在も渡し船:越の潟フェリー⛴がある。
欲レ行、不往=行カント欲スレドモ、往カズ
ナゴ=奈呉=那古
翁=芭蕉翁
少□ とは、曾良の自称だろう=小生。 自身も、芭蕉翁に同じく暑気あたり(熱中症)気味
滑川を出てハイペースで高岡に着いたが、暑さ厳しく、二人共ぐったり疲れている。
前日に続き渡河が多い。越中を横断するという事は、渡河の連続。
未ノ中刻=14時
15日も連日の炎天下・ハイペースで金沢の、京や吉兵衞宅に着いたのが14時である。
峠越えで渡河がない区間。
記:野村龍司
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あいの風とは何ぞや?
あいの土山とは何ぞや? I KNOW TSUCHIYAMA!