赤尾家 ファミリーヒストリー

野村龍司:writer の、先祖は戦国武将だった。

母(1929.5~)は、旧姓が赤尾で、母方祖父は赤尾佐太郎(1901~1959.10)

赤尾氏は浅井長政の三代祖母の実家にして、

赤尾清綱(1514~1573)は、浅井家家臣筆頭。

因みに、織田家の家臣筆頭は丹羽長秀柴田勝家で、

家臣の序列は、下克上の戦国時代にあって、家柄だけではなく、

文字通り、年齢その他の年功に拠る。

赤尾清綱は浅井三代に仕え、浅井家は、三代目長政の頃に、全盛期を迎える。

浅井亮政赤尾で、浅井三代とは、浅井亮政久政長政

姉川の戦に敗れ、浅井長政小谷城赤尾屋敷で切腹(享年29)して以降、

赤尾氏藤堂氏に同じく、戦国時代末期~江戸時代にかけて、主君が次々と変わった。

(藤堂高虎は、武士としてのキャリアを浅井長政の足軽でスタートして、家康臨終の床に臨席した)

浅井氏→浅井三姉妹の三女:(徳川二代将軍秀忠の正室:家光の母)

秀忠の次女珠姫(徳川家光の姉:前田利常の正室)

利常と珠姫の次男前田利次(初代富山藩主)となる間に、

近江国浅井郡から、大津・小浜・因幡・出雲・金沢を経て、富山藩の武士となり、

富山藩初代町奉行は、赤尾氏

 

浅井亮政の曾孫にあたるの子孫は、

長男(=徳川家光)の曾孫(=徳川家継)まで、幕府の将軍職を世襲し、浅井の血を残した。

このため、現代の皇室も亮政・長政の末裔にあたる。

辿れば、赤尾氏は、浅井家お江を通じて(←クリックでの系図)

お江の母:お市は、織田家、

お江の子:家光は、徳川家、家光の9代子孫の九条節子は、大正天皇の后で、昭和天皇の母。

お江の子:和子は、後水尾天皇に嫁ぎ第109代明正天皇を産む、

お江の子:珠姫(家康の内孫:家光の姉)は、加賀藩前田家に嫁ぎ、三男五女を産み、

加賀前田家は、徳川家と姻戚関係になっただけでなく、

代々、英明な藩主を江戸末期まで輩出する。(前田家では、不思議とバカ殿が出なかった)

と、遠く繋がっている。

 

赤尾氏は、近江国伊香郡赤尾(現滋賀県長浜市木之本町赤尾)を本貫地とし、 土豪・国人領主として赤尾の地を治めた。

7c.三尾神社に、赤尾神が出現。壬申の乱では、三尾山城(白鬚神社の裏山)が、大友皇子の砦。賎ケ岳の南に木之本町赤尾。

湖北四家 赤尾氏・雨森氏・磯野氏・井口氏がすべて地名になっている。物部という古代豪族の地名もある。古くは、息長氏(神功皇后)も湖東の豪族である。



近江国湖北四家(赤尾氏、雨森氏、磯野氏、井口氏)の一つとされ 、
 
赤尾氏は、京極氏(宇多源氏)譜代の家臣で、戦国時代では、赤尾清綱の名が知られている 。

浅井亮政の母(清綱の叔母または伯母)が赤尾氏と伝わる。

 
清綱は、浅井三代(亮政久政長政))に仕える譜代だった。
 
浅井氏はその間、主家京極氏との力関係を逆転し、勢力を伸ばした。
 
長政が織田信長の妹お市を側室に迎えた(信長の一字を拝領し、長政と改名した)ころが、浅井氏の全盛期だ。
 
信長の朝倉攻めの際に、浅井長政は信長の背後を攻める。金ケ崎の退き口1570年
 
当時の信長(1534~1582.6.2)にとっては最大の危機で、同盟関係にあった妹婿(長政)の裏切りとされるが、
 
単に、織田浅井同盟よりも浅井朝倉同盟が古く、結束がより強かったということなのか、
 
朝倉を攻める際は、浅井に事前に相談するという約束を信長が破った為だとか、
 
旧臣が、隠居していた久政を、担ぎ出したので、長政は従軍していないとか、
 
信長挟撃の千載一遇のチャンスと見たのか、諸説あって、真相は分かっていない。
 
この金ケ崎の戦いで背後を衝かれた事が、信長としては、浅井に対する遺恨となり、
 
姉川の戦い(1573:小谷城落城)へと向かう事になるのは、余りに有名な話だ。
 
浅井氏のように近江という交通の要所にして、農業生産力が高い場所で、大名を張るということは、
 
いつかメインキャストとして歴史の表舞台に登壇するという事なのだろう。
 
 
 
赤尾氏と浅井氏の縁は深く、 小谷城跡の、本丸に近い高所に、赤尾屋敷跡があり、赤尾清綱が在番していた。 

右⇒赤尾美作守屋敷跡

赤尾屋敷跡

1573.9.6 浅井長政公自刃之地 享年29

 

1573年9月、小谷城の赤尾屋敷にて、浅井長政・赤尾清綱は切腹。お市(小谷の方)浅井三姉妹(茶々・初・江)・赤尾清冬らは助命。

 
大津市の園城寺(三井寺)に三尾神社(みおじんじゃ)があり、その祭神は伊弉諾尊(イザナギノミコト)である
 
昔、長等山の山頂に、腰に赤・白・黒の三つの帯を付けた伊弉諾尊が降臨し、長等山の鎮守神となり、祀られた。
 
また、腰に付けた三つの帯が尾に見えたために、この神は三尾明神といわれるようになった。
 
ある時(7c. ?)その帯が赤尾神・白尾神・黒尾神になり、
 
最初に赤尾神が本神として卯の年、卯の月、卯の日、卯の刻、卯の方より長等山の琴尾谷(琴緒谷)に現れた。
 
白尾神は大宝年間(701年 – 704年)に現三尾神社の地に、
 
黒尾神は神護景雲3年(769年)3月14日(第2の卯の日)に鹿関(現・長等小学校の東側)に出現した。
 
また、壬申の乱(672年)の際、天智天皇の太子・大友皇子は、
 
白鬚神社の裏山に、三尾山城を築き、近江高島郡(地名を勝野または三尾)を守らせた。
 
三尾の地では、継体天皇の出自と関わる古代豪族の三尾氏が割拠したことが知られる。
 
壬申の乱の時代に赤尾氏は「近江国高島郡三尾」の豪族。

 

時は降って、戦国時代、

浅井家家臣筆頭は、近江国伊香郡赤尾の赤尾清綱(1514~1573)で、

姉川の戦に敗れ、浅井長政と赤尾清綱が切腹し、浅井家の男系は断絶(三姉妹の他、男子が2人いた)。

赤尾清冬(清綱長男)以下の赤尾家の男子は、信長が、清綱の働きに免じて助命した。

赤尾氏は、京極氏(宇多源氏:浅井氏の旧主家)の譜代でもあり、血縁もあったと考えている。

関ヶ原の戦い(1600.9.15)の頃、大津城城主は、京極高次(小谷城京極丸で生まれている)。

高次の母は浅井長政の姉、妻は長政の娘(浅井三姉妹)「」・・・従兄妹同士

高次の姉:龍子(松の丸殿)は秀吉の側室、高次の妻:の妹:秀忠の妻。

つまり、高次の義兄が豊臣秀吉で、義弟が徳川秀忠であり、

東西交通の要所:大津城主京極高次は、難しい二拓alternativeを迫られ、東軍に組する方を選ぶ。

関ヶ原の前哨戦と位置づけられる大津城の戦い(1600.9.7~9.15)で、

この時、働いたのが、赤尾伊豆守(清綱の三男1559~1617)と山田大炊(おおい)である。

>>>山田赤尾ハ素ヨリ智勇備リ武辺場数ノ勇士ナレバ、寄手ヲ手軽ク追捨テ、勝鬨作リテ城中ヘ引返ス>>>『大津籠城合戦記』

籠城一転、精兵500騎で城外に打って出て、

1万5000の毛利軍を逢坂の関で杭止め、関ケ原合戦場に行かせなかった。

結局、大津城攻防戦は西軍の勝利に終わったが、

大津城が開城した9月15日は関ヶ原合戦の当日であった。

そのため西軍は、本来ならば関ヶ原にあったはずの

1万5000の兵力を欠いたまま東軍と戦うという状況に陥った。

結果として、大津城の落城は、その日のうちに無意味なものとなった。

(東では、3万8000の徳川秀忠軍を、信州上田城で止めた真田昌幸がいる。)

(浅井三姉妹のは、小谷城・越前北の庄・大津城と、落城を三度経験する。)

高次長男 忠高の正室が、徳川秀忠との四女で、家光の妹の「初姫」だが、これも父子2代続けて従兄妹同士。

 

加賀前田家に輿入れした徳川秀忠との次女で家光の姉「珠姫」が、三男五女を産んだのとは対照的に、

初姫は、京極忠高との間に子がなく、

加賀前田家が繁栄し、富山・大聖寺などに支藩を分封(武家諸法度:元和令1615の下)したのに対し、

京極家は、大津城攻防戦の戦果により、若狭一国を与えられ、

初姫輿入れに伴い、松江藩(26万4000石+石見銀山)へと、増封された後は、

忠高の死1637年を期に、播野龍野藩(6万石)を経て丸亀藩(6万石)へと減封され、

松江藩は幕末迄、松平家が治める。

ことほど左様に、前田家や京極家という外様大名にとって、徳川家との血縁は重要だった。

 

赤尾清冬(清綱長男)は赤尾伊豆守の兄で、初め宮部継潤に仕え、その後小浜⇒因幡京極氏の配下となる、

赤尾四郎兵衛(清綱次男)は、関ヶ原合戦時、石田三成の妹婿:福原右馬助直高に与して戦死した。

福原右馬助直高は、関ヶ原の前後、豊前12万石~大分臼杵6万石の大名で、

四郎兵衛(推定年齢35〜40)に子がいたとしても「大分県の赤尾氏」は、さらに少し古いので、

福原右馬助直高の家来:赤尾四郎兵衛の子孫と考えるには無理がある。

 

真田家のように、東軍・西軍に分かれて、

片方が滅亡しても、一方が家名を残すという長期戦略があったわけではない。

赤尾孫介(清綱四男)は、小谷城落城の際、織田信長預りとなり、

秀吉配下で、岐阜長峰の戦いで討死、享年15という記録があるのみ。

以下、想像だが、元服したばかりの赤尾孫介(四男)は、

主家が滅び、兄弟が離散しても、赤尾家男子である。

秀吉に上手く(言葉巧みに)背中を押され、勲功を挙げようと、先陣を切って、斬り込んだのではないか?

数えで15が、武士として生きる覚悟で、果敢に討ち死にしたと想うと、涙を禁じ得ない。

 

赤尾伊豆守(清綱三男)の子、赤尾主殿助は初め、京極高次に3500石で仕えた後、

1637年京極忠高の死去に伴い、京極家が、出雲⇒播州龍野⇒丸亀へと減封されたころ、

加賀藩第3代藩主前田利常に1000石で召抱えられる。『加賀藩寛文侍帳』

赤尾清冬以下四兄弟は、主家浅井氏が滅亡し、父清綱(浅井家家臣筆頭)亡き後は、

己の身一つで、血縁の京極氏や地縁(長浜市宮部)の宮部継潤の所縁を頼って、

戦国末期~江戸時代を武士として身を立てた。

 

利常珠姫の次男前田利次の富山藩創設(加賀前田宗家から分封)の頃、
 
赤尾清冬の曾孫(三右衛門清正の娘)が召し出され、
 
金沢では利次の傅役、富山城では大奥を創設して仕切ったと伝わるのが、
 
その名も赤尾勝野(赤尾清正の娘:清綱の曾孫)である。
 
珠姫(前田利次の母)の乳母が『蛇責め』で処刑された話・・・
 
>>>外様筆頭の前田氏に幕府の情報が筒抜けになることを恐れた珠姫乳母は、
夏姫(五女)の出産後に母体の調子が宜しくないという理由を付けて、珠姫を隔離した。
事情を知らない珠姫は、利常御成りがなくなったのを寵愛が薄れたからと誤解し、衰弱死した(1622年 享年24)。
臨終の床に強引に駆けつけた利常は、珠姫の遺言からすべての事情を悟り、その怒りから珠姫の乳母を蛇責め🐍にして処刑したという>>> 
 
この逸話を、勝野が知らない筈がなくて、
 
「大奥を仕切る」という重責は、半可通な覚悟では受けられないし、器量人でないと務まらない。
 
勝野にとって、武家の女として、命懸けの職務だっただろう。
 
赤尾wikipediaで、>>>勝野は、才女の誉れが高く※要出典>>>となっているのは、
 
大奥切り盛りの背景(蛇責めの因縁話)や、利次傅役を任された実績からの、イメージだと思う。
 
 

加賀百万石・富山藩10万石・大聖寺藩7万石の図。加賀藩長男前田光高、富山藩次男前田利次、大聖寺藩三男前田利治。

 
1639年 加賀前田宗家は、支藩を分封する際に、
 
富山藩(10万石)や大聖寺藩(7万石)に過分の家臣団を押し付けた。
 
武家も、徳川の治世が安定期に入り、戦国時代のように武力でのし上がる時代ではなく、
 
各藩は、江戸城の普請・参勤交代・地元の治水灌漑事業等の費用負担が常に重かった。
 
勝野の父・三右衛門清正は、寛永17年(1640年)に前田利次に仕え(500俵・銀100枚)
 
長兄の弥三左衛門(後に三右衛門)清治(500石)は寺社奉行・町奉行、
 
次兄の覚太夫清長(200石、後に50石加増)も寛永16年に利次の御馬廻として仕え、後に呉服御土蔵奉行などを務めた。
 
清長の子覚太夫清貞前田正甫(富山藩の第2代藩主)の小姓である。
 
加賀藩から支藩の富山藩に、転勤再雇用された家臣団に、赤尾氏が含まれていたのだろう。
 
勝野は、兄:清治の孫の清房を養子に迎え、富山赤尾氏の始祖となった。
 
↑の地図のとおり、富山藩は加賀100万石に挟まれた表高10万石の小藩だった。
 
各藩は、新田開発に励み、富山藩は明治維新のころ1870年には、内高が15万8000石となり、
 
殖産興業によって漁業、売薬業、蚕種業(silkworm breeding)、製紙業(八尾和紙)などの振興に注力した。
 
武家の努力目標は、関ヶ原(1600年)以前と元和偃武(1615年)以降とでは大きく変わった。

赤尾氏wikipedia の記述中、

勝野(生年不詳〜1685)は、珠姫3才(1601年)で加賀前田家に輿入れする際に、召し出され・・・

とあるのは、勤続年数が長過ぎるので、間違いではないか?

↑のとおり、珠姫の乳母は蛇責めで刑死している。

姓氏家系大辞典. 第1巻P16

姓氏家系大辞典. 第1巻P17

 

僕の母方祖父=赤尾佐太郎(1901~1959.10)は、昭和天皇と同じ1901年(明治34年)生まれ。

六尺(身長181.8cm)の美丈夫だった。

佐太郎は、1945年(昭和20年)6月という太平洋戦争末期に、

44歳で帝国陸軍に召集され、出征兵士として見送られたが、

病気の為(趣味の猟銃:狩猟で尻餅をついた際、尾骶骨にヒビが入っていたのを、痔疾と勘違いされ)即日帰宅した。

同日に召集された人の多くは、最前線に送られて、戦死したり、シベリア抑留となった。

佐太郎は、印刷業や売薬業など商売が上手く、

高額納税者でないと得られない猟銃許可を得ていた。

亡くなる直前の1959年2月、僕が家で産まれる日、雪道を、産婆さんを呼びに1km先の隣村まで往復した。

余程、男子誕生が嬉しかったのか、佐太郎は「赤尾を名乗らせる」と言い出したという。

赤尾家(佐太郎直系)として、僕は、58年ぶりの男子。

今上天皇一家で、悠仁さま(2006~)は、

秋篠宮(1965~)以来41年ぶり男子みたいなもの(男系と女系の違いはある)

 

母(1929.5~)は、赤尾家の一人娘で、富山県立女学校4年生(16才)時

連日、不二越に学徒動員で勤労奉仕していた(~3年と5年生は動員が無かった)のだが、

昭和20年8月2日未明の富山大空襲(市街地の99.5%が焼失:主要都市以外では富山市が最大の被災)

の戦火をくぐり、野村家に嫁いで、僕を含む4人の子供をもうけ、

孫が10人、曾孫が現在10人いる。

来年3月には、何と❗️目出度い事に、母は父の50回忌法要を執り行なう。

48年前、父を失った時、僕は13才で、姉は18才と15才、弟は10才だった。

思えば、父浅井長政を失った浅井三姉妹 4才、3才、0才

継父柴田勝家と母お市を同時に失った時は、14才、13才、10才。

父赤尾清綱を失った清冬以下の兄弟も、、、

夫々に、母の姿を見て、人に学び、励まされ、

自らを励まして、生きた。

血脈だけに注目すると、大河ドラマ江 ~姫たちの戦国~の主人公

浅井三姉妹の末娘;お江(1573.8~1626)は、Key womanで、

織田家と浅井家を結び、徳川家、前田家、九条家、そして畏れ多くも天皇家に遺伝子を遺した。

しかし、お江以外の者も、人に学び励まされ、自らを鼓舞して、

それぞれの時代を懸命に生きたのだと思う。

 

 
富山城下の初代町奉行は、赤尾氏である。 

赤尾佐太郎が、僕の母方祖父にして、1/3系統の惣領だった。
 
富山市中野新町越中白山総社の氏子総代を務めた。
 
母は、佐太郎の一人娘で、僕がその長男である事から
 
富山赤尾氏1系統の嫡流(男子がいれば長男、女子だけなら長女)を辿ると、
 
僕を経て、僕の長男に、行き着く事になる。
 
富山赤尾氏のY遺伝子は、赤尾佐太郎で最後では無く、
 
佐太郎の弟・・・佐次平及び佐四郎の家系に引継がれて、
 
現在も存在するが、何れも関東に住んでいる。
 
赤尾佐太郎27回忌の法要(1986年)を、
 
僕の家で執り行った際に、当時存命だった赤尾佐四郎と、
 
更にその妹(江川姓)の来訪をみたが、 二人共他界した。
 
赤尾禎郎先生↓も来ていた。
 
その当時も今も、僕は父(陸士OB)の姓:野村を名乗っている。
 
富山赤尾氏の、他の2系統はどうなったんだろう?
 
砂町の雪見橋あたりに、「赤尾」という陶器屋があったと母が言っていた。
 
大阪天満繁盛亭門前の「MAIDOYA麻衣ちゃんは、旧姓が赤尾で、富山赤尾氏。
 
MAIDOYAブログによると、赤尾氏を編集したり、その為に富山県立図書館の資料を、渉猟した人物は、
 
麻衣ちゃんの父上で、wikiの編集に加わっているという。
 
赤尾三右衛門清正長男:三右衛門清治の家系ではないだろうか?
 
MAIDOYAブログの中で>>>500年遡ると先祖が100万人いる>>>というのは、
 
1世代25年とすると、500年は20世代なので、先祖の数は、2の20乗=1,04,8576≒百万人ということだ。
 
 
 
 
富山の長岡墓地(前田利次の墓所を中心とする:百塚の西)に、文化3年(1806年)というから、
 
今から214年前に、東面して建てられた「赤尾家先祖代々の墓」の墓碑銘は「赤尾佐助
 
このころ既に、通字は「」になっている。
 
赤尾家の男子は、「」が通字だが、佐太郎には「」が入っていない。
 
墓石に家紋は、入っていないが、嫡流の僕以外からの供物や花がある。
 
相対して、平成9年に西向きに建てられた新しい墓石には、家紋が入っており、
「丸に四つ柏」ではなく「木瓜紋」になっている。
 
佐太郎の祖父あたりまで、名字帯刀を許されていたというから、
 
北近江赤尾氏なら、「丸に四つ柏」だと思うのだが、
 
佐太郎の家紋などの資料は、富山空襲の所以か、残っていない。
 
分家する際に、家紋に部分的(若干の)変更を加える事は、割とある話だが
 
柏から木瓜という素材から変えてしまったのだろうか?
 
この同祖ファミリーは、佐太郎の長姉を始祖として昭和の初め頃に分家して、
 
中国山東半島の青島(チンタオ)で薬を商った家で、三代目当主は、、、
 
偶然だが、僕の中学高校の同窓同級の禎郎君である。
 
子供の頃の禎郎君は、苗字がFで、
 
インテリばかりを輩出する、名門F家の次男だった所、
 
富山赤尾氏の流れを汲む、僕の2従妹(母の従姉の娘)と結婚して、赤尾を名乗るようになった。
 
以上、赤尾佐太郎の姉家の当主で、
 
富山中部高校 第29期同期で親戚の赤尾禎郎先生へ、ウェブ記録として残すこととする。

 

 

 

 

 

オマケ

髑髏杯💀の伝説は、作り話である。

信頼性の高いとされる『信長公記』(by太田牛一1527~1613)によると

>>>1574年正月朝倉義景浅井久政長政共々、髑髏に箔濃はくだみ:漆を塗って金箔を押す)を施され、その金箔髑髏を、信長が家臣に披露した。>>>・・・とある。

にして酒を飲ませた」というクダリは『浅井三代記』(1661年に初出)にあるが、『信長公記』(信長にも仕えた太田牛一による一次資料)には無く、

『浅井三代記』の方は、後(1661年)の成立(伝聞)なので、信憑性に欠けるとされている。

この信長の行為を桑田忠親は「信長がいかに冷酷残忍な人物であったかがわかる」と評している。『淀君』1958年

この桑田説に対して、桑田の弟子でもある宮本義己敵将への敬意の念があったことを表したもので、

改年にあたり、今生と後生を合わせた清めの場で、三将の菩提を弔い、新たな出発を期したものであり、

桑田説は首化粧の風習の見落としによる偏った評価と分析している。『誰も知らなかった江』2010年

新井白石(1657~1725)は、『読史余論』の中で、

「総じてこの人(信長)は、生まれつき残忍な性格で、詐術の力によって志をとげた」というが、

『信長公記』by太田牛一では、

「果断にして正義を重んじる性格であり、精力的で多忙、情誼が厚く道理を重んじる古今無双の英雄」とされる。

太田牛一や、宣教師ルイス・フロイスの方が、実際に信長のそばにいたので、刻銘な描写が数多く残されている。

大河ドラマ『功名が辻』で使用された髑髏杯のイミテーションが、掛川城に展示してあるが、

最新大河ドラマの『麒麟が来る』では、髑髏杯の伝説が上書き保存されるのか?

明智光秀は、前半生の記録が少ないので、光秀を描く『麒麟が来る』は、フィクションが多いのだが、

殊更に、信長の冷酷残忍な人物であったという虚像を強調して、

「本能寺の変」へと誘導する挿話として利用するのは

grotesqueを押し出して、信長を貶める安直な脚本ではないか?

さても、皆様お立ち会い!

ユースケ・サンタマリア:朝倉義景は髑髏杯になるのかな?

『麒麟が来る』では、朝倉景鏡(手塚とおる:義景を裏切り、実質的に朝倉家を滅亡に導いた)や、

二条晴良(小藪千豊:近衛前久に、とって変わって関白となる)の役(者)が、ハマりすぎて面白いし、

ヒールである筈の松永弾正久秀を演じる吉田鋼太郎は、マスクが甘くて憎めないのが、斬新だと思う。

 

 

 

オマケのオマケ

お母さん  雪の降る夜に 私を生んで下さってありがとう  もうすぐ雪ですね

↑「日本一短い母への手紙」最優秀賞作

 

 

 

 

長文を、最後まで読んで頂いた方、誠に、ありがとうございます。

登場人物が多く、書きたい事だけ連ねた、私的備忘録で、8000字超の長文になってしまいました。

イザナギノミコトの上代から、下克上の戦国時代を経て、元和偃武・徳川太平期・太平洋戦争・・・と

書き進める内、武士としては最も武功を挙げた赤尾伊豆守(清綱三男)よりも、夭逝した赤尾孫介(清綱四男)に、最も心を動かされました。

また、柴田勝家(1522~1583)、朝倉景鏡(1525〜1574)、藤堂高虎(1556~1630)、京極高次(1563~1609)達

戦国武将としてはバイプレイヤーのエピソードが大変面白いことが分かりました。

 

 

 

 

記:野村龍司