いつも心にギャンブルを②

いつも心にギャンブルを①の続編です。

以下、「関ケ原」by司馬遼太郎より

 

関ヶ原前夜の伏見城下、藤堂高虎の麾下に放埒な家来が五人出た

二人は、京の遊里に通い続け、ついに家財まで売り払った

あと三人は、博打好きで、矢張り家財まで売り払った

侍目付が高虎に「五人の者 いかがいたしましょう」と訊く

高虎は即座に判決した

女狂いをした二人は放逐

屋敷の裏から突き出し、阿呆払いをした

ところが、同じ放蕩でも博打の三人に対しては

「家禄を三分の二に減じ、以後改心せよ」というだけの罰を与えた

周りがその理由を問うと

「色に耽って女に欺かれ、家財を蕩尽するような男は何の芸もあるまい。

勇も智もあるまい。そのような者を扶持するのは無駄だ。

然し乍ら博打は別である。固より、博打は好ましからざる事であるが、

遊冶郎より博打を打つ者には生気もあり活力もあり、

兎も角、人に勝とうとする利心もある

つまり利を知る者だ。使うべきところがある」と言った

以上「関ヶ原」by司馬遼太郎

 

戦国時代は、大河ドラマや小説に最も人気のある時代で、

キャラクターの際立った人物が多いのが魅力だが、

何でもあり(ルール無用)の時代に、皆が一所懸命に生きたことが、面白い。

上の藤堂高虎(1556~1630)は、武士としてのキャリアを、浅井長政の足軽としてスタートし、

浅井長政阿閉貞征磯野員昌織田信澄豊臣秀長秀保秀吉秀頼徳川家康秀忠家光 と、

仕官先を転々として流浪生活をしている間、無銭飲食をしたという話も残っている苦労人で、

最後は、伊勢津藩主となるまで、主君を11回変えるという、

ある意味ギャンブラーでもあり、関ケ原のころは、

秀吉が死んだ直後なので、高虎の主君は秀頼だったはずだ。

 

今年は、テニスのウィンブルドン大会2020が中止となったが、

テニスの試合で、選手が審判の判定に疑義を抱いた場合、チャレンジというルールがあって、

審判の裁定に対し、ビデオ記録と照合して再検証を申し出ることのできるシステムだ。

チャレンジ同様、自分と他人で、認識が異なる場合に、

裁判(法廷)で、裁定してもらうというのも、一種のギャンブルだ。

観客が、贔屓の選手のチャレンジを、手拍子で応援したりする。

 

或る人にとっての幸福は、他人にとっては愚行かもしれない。

野良猫にエサをやるとか(ギャンブルをやるとか)・・・

ひふみんこと加藤一二三氏(将棋の元名人)が、

裁判(野良猫に餌付けした件)で敗けたのは、

他人の権利を妨げた(近所迷惑)という事実があったからだが

「他人の権利を害しない限り個人が幸福を追求する権利は妨げられない」

とするリバタリアンは、爾後も絶滅することはない。

 

ギャンブルといっても、例えばボードゲームで言うと、

囲碁・将棋・カード・マージャンは、大きく分けて、

完全情報ゲームと不完全情報ゲームとに分類される。

囲碁・将棋は、完全情報ゲームで、相手の手の内もすべて見える。

カードやマージャンは、伏せてある部分が、すべて見えているわけではない不完全情報ゲームだ。

完全情報ゲームはゲーム性が高く、つまり実力差がすぐに出るので、

賭けの対象にはなりにくいのだが、賭ける場合もある。

例えば僕は「真剣師小池重明」の小池という男に魅力を感じる。

小池重明(1947~1992)は、賭け将棋の強豪で、タイトルホルダー時代の森雞二や、

勝率1位だったころの田中寅彦に勝ったことがある。

小池の対局の棋譜は多数現存していて、藤井聡太(2002~)は幼い頃に通った将棋教室で、

小池と大山康晴(1923~1992)との対局の棋譜を見て(小池は大山に角落ちで勝っている)

自分の読みと実際の指し手が合っていたか研究していたというエピソードがある。

将棋ペンクラブブログ

小池重明は、賭け将棋で強くなったという事で、これはギャンブルの効用ではないか?

「私が後年、小池とつき合うようになって、この男にふと関心を持つようになったのは小池の持つ悪徳性というか、邪悪性というか、また、彼の野獣性にしても、これが人間の本然の姿ではないかと或る種の羨望を感じる事があったからだ。小池のように足の向くまま気の向くまま、この世を生きた男は珍しい。実は人間、誰しも小池のように好き勝手に生きたい願望を潜在的には持っているのだが、それが出来ないもどかしさを世間体やら理性やら良識といったものを全面に押し出して分別顔して我慢している」by団鬼六

小池重明についての、どの本だったか失念したが、宮崎国男の本に寄せている

>>>小池重明は死んでしまったが、小池よ!小池の魂よ!成仏するな!

という あとがきを、僕はいつまでも忘れられない。

 

 

以下、橋本長道のブログより

 奨励会というのは将棋のプロを目指す者達の登竜門だ。6級から始まり昇級昇段を重ね、三段リーグを抜けると、晴れて棋士四段となり賞金・給料を手にすることができる。私は中学三年生の夏から四年ほど在籍していた。奨励会――というとこんなおぼろげな記憶が蘇る。

○○くん、それ……」:関西将棋会館3階奥の棋士室は奨励会員や棋士達の研究の場となっている。よく行われているのが「VS」と呼ばれる1対1でひたすら対局する――という形式の研究会だった。ある日、将来超有望な小学生奨励会員が中学生の奨励会員と棋士室でVSをしていた。そこに、奨励会幹事で鬼のように厳しいことで有名なプロの先生が入ってきたのである。先生は奨励会でふがいない成績をとり続けている年齢の高い者に対して、「早くやめたほうがいい」などと厳しい言葉を投げることで知られていた。私もキツく言われることがよくあり、非常に苦手な先生だった。もちろん、それは優しさの裏返しでもあり、年齢制限ギリギリながら努力を続ける奨励会員などからは逆に慕われていた。先生は眉間に皺を寄せながら、VSをしている二人に近づき、こう声をかけた。「○○くん、それお金賭けてるの?」○○というのは小学生奨励会員の名前である。彼の駒台の横には100円玉が積まれていた。棋士室にいた奨励会員たちは凍りつく。答え方を間違えると、どんな雷が落ちるかわからないぞ……。一瞬の沈黙のあと、その小学生奨励会員は答えた。「はい。賭けています」返答を聞いた先生の顔付きが変わる。なんと笑みを浮かべたのだ。「よろしい。賭けないと、強くなれないからね」先生は「どれだけ少なくてもいいから練習将棋では必ずお金を賭けなさい」とのアドバイスを残して棋士室を去っていった。

プロとアマとを分けるもの:これは元奨励会員の友人と飲むと時折出てくる思い出話だ。登場する奨励会員と棋士の先生の名前が違うバージョンもある。奨励会員が「一局100円賭けています」と答え、棋士の先生に「少ない。もっと賭けなさい」と怒られるというものもある。15年以上前の話なので、今はどうなっているかわからない。「賭けはいけない」という建前のコンプライアンスもあるだろう。どストレートにお金を賭けなくても、罰金にしたり、研究会の供託金にしたりと工夫することで形式上賭けを回避することもできる。おためごかしはいい。私も棋士室で練習将棋を指す時は必ず100円200円は賭けていた。大人数の研究会だと金額はより大きくなる。私の場合は将棋だけではなく麻雀やトランプでも賭けていたから落伍した。将棋だけに賭けていればよかったのだ。先のエピソードに登場した少年は将棋だけに懸けていた。先生が言いたかったことは何か? それはプロとしての意識だ。プロたるもの、目的のない将棋を指してはいけない。将棋でお金を稼いで生きていくということを心の底から知り、実践していくべきだ――ということだったのだろう。将棋を指してお金を貰うことがプロとアマとの根本的な違いなのだ。小学生の頃からお金を賭けて将棋を指す世界――それが奨励会だ。私がいた頃と比べて、真面目化・優等生化した今の奨励会においても根本の部分は変っていないはずだ。今をときめく藤井聡太六段もこうした道を通ってきたのである。(これは2018.3.6の記事で藤井聡太は六段だった)

元奨励会員の橋本長道は文章が上手い。

>>>笑みを浮かて、、よろしい。賭けないと、強くなれないからね

・・・将棋でもゴルフでも賭けるから強くなるのだ。

 
本題からは少し外れるが、山崎元は、藤井聡太について
本題から外れるというのは、つまり、
将棋は勝負事だが「ギャンブル」ではなく、
「高度な頭脳ゲーム」と言うべき点だ。
しかし、現実には将棋棋士は、タイトルを数千万円懸けて戦っていて、
タイトルを懸けて戦えるような将棋棋士は、
せいぜい上位15人/160人ぐらいだ。
 
 

 

 

文責:野村龍司