不確実性の時代・・・102年前のスペイン風邪を参考に・・・

著名な経済学者 フランク・ナイト(Frank Hyneman Knight 1885年 – 1972年)の 最大の功績は、

著書『Risk, Uncertainty and Profit(危険・不確実性および利潤)』である。

ナイトは、確率によって予測できる「リスク」と、確率的事象ではない「不確実性」とを明確に区別し、

「ナイトの不確実性」と呼ばれる概念を構築した。

ナイトは、不確定Uncertaintyな状況を3つのタイプに分類した。

  •  第1のタイプは「先験的確率」である。これは例えば「2つのサイコロを同時に投げるとき、目の和が7になる確率」というように、数学的な組み合わせ理論に基づく確率である。

 

  •  第2のタイプは「統計的確率」である。これは例えば男女別・年齢別の「平均余命」のように、経験データに基づく確率である。

 

  • そして第3のタイプは「推定」である。このタイプの最大の特徴は、第1や第2のタイプと異なり、確率形成の基礎となるべき状態の特定と分類が不可能なことである。

さらに、推定の基礎となる状況が1回限りで特異であり、大数の法則が成立しない

ナイトは推定の良き例証として企業の意思決定を挙げている。

企業が直面する不確定状況は、数学的な先験的確率でもなく、経験的な統計的確率でもない、

先験的にも統計的にも確率を与えることができない推定であると主張した。                      

そしてナイトは完全競争の下では不確実性を排除することはできないと主張し、

その不確実性に対処する経営者への報酬として、利潤を基礎付けた。

 

さて、2008年9月にリーマンショックを、2011年3月11日に関東東北大震災を経験した我々は、

その2つの予測不可能な経験を経た上でも、2019コロナVIRUSショックに対し、その経験を活かすことができていないようだ。

 

僕は志村けんが死んだ日から、世間が少し変わったように感じた。

自粛ムードが新局面に入ったのを目のあたりにした。

通勤電車の空席が目立ち、電車内のマスク着用率は、前日までの80%から95%になった。

同様に、9.11に、旅客機がNY貿易センタービルに突っ込む前と後とでは、明らかに世界が新局面に入った

よく言われる言葉で、「歴史は繰り返す」と言うが、歴史は繰り返すのではなくて、

部分的には繰り返しながら、新しい局面に入っていくのではないかと思う。

新しい局面(phase)に入っていくタイミングが不確実(uncertain)だから、

不確実性の時代(Era of uncertainty)なんだ。

 

人類は、感染症の歴史で言うと、ペスト※1・天然痘※2・結核※3・スペイン風邪※4 などを克服してきた。

僕らが、ペスト・天然痘・結核・スペイン風邪などを、流行当時の人々ほど恐れないのは、

原因菌が既知のものである」「特効薬が既にある」「現代人の一定数が免疫を獲得している」などの条件を満たしているからだ。

既知のものであるという資料を、以下に(Wikiより)引用する。

 

 

※1 

ペスト

14世紀のヨーロッパで猛威をふるったペストは、感染すると、2日ないし7日で発熱し、皮膚に黒紫色の斑点や腫瘍ができるところから「黒死病」(Black Death)と呼ばれた。カナダ出身の歴史家ウィリアム・ハーディー・マクニールによれば、「黒死病」は、中国の雲南省地方に侵攻したモンゴル軍がペスト菌を媒介するノミと感染したネズミを中世ヨーロッパにもたらしたことによって大流行したものである。ただし、科学史家の村上陽一郎によって中東起源説も提起されている。

 

ヨーロッパにおけるペストの伝播

ペストは、1320年頃から1330年頃にかけては中国で大流行し、ヨーロッパへ上陸する前後にはマムルーク朝などイスラム世界でも猛威をふるっている。この病気が14世紀のヨーロッパ全体に拡大したのは、モンゴル帝国によってユーラシア大陸の東西を結ぶ交易が盛んになったことが背景になっている。当時、ヴェネツィア、ジェノヴァ、ピサなどの北イタリア諸都市は、南ドイツの銀、毛織物、スラヴ人奴隷などを対価とし、アジアの香辛料、絹織物、宝石などの取引で富を獲得していた。こうしたイスラームとヨーロッパの交易の中心となっていたのは、インド洋、紅海、地中海を結ぶエジプトのアレクサンドリアであり、当時はマムルーク朝が支配していた。

1347年10月、ペストは、中央アジアからクリミア半島を経由してシチリア島に上陸し、またたく間に内陸部へと拡大した。コンスタンティノープルから出港した12隻のガレー船の船団がシチリアの港町メッシーナに到着したのが発端といわれる。ヨーロッパに運ばれた毛皮についていたノミに寄生し、そのノミによってクマネズミが感染し、船の積み荷などとともに、海路に沿ってペスト菌が広がったのではないかと推定されている。ペストはまず、当時の交易路に沿ってジェノヴァやピサ、ヴェネツィア、サルディーニャ島、コルス島、マルセイユへと広がった。1348年にはアルプス以北のヨーロッパにも伝わり、14世紀末まで3回の大流行と多くの小流行を繰り返し、猛威を振るった。正確な統計はないが全世界で8500万人、当時のヨーロッパ人口の3分の1から3分の2にあたる約2000万から3000万人前後、イギリスやフランスでは過半数が死亡したと推定されている。場所によっては60パーセントの人が亡くなった地域もあった

この疫病がヨーロッパに到達した数か月ののち、ローマ教皇クレメンス6世は、当時のカトリック教会の総本山のあったアヴィニョンより逃亡したが、そのいっぽうで教皇の侍医長であった外科医ギー・ド・ショーリアックはアヴィニョンにとどまる勇気を示している。また、腺ペストに特徴的なリンパ節の腫瘍は「腫れ物」と称され、人類のみならずイヌやネコ、鳥やラクダ、ライオンさえをも苦しめた

このときのペストの流行ではユダヤ教徒の犠牲者が少なかったとされているが、ユダヤ教徒が井戸へ毒を投げ込んだ等のデマが広まり、ジュネーヴなどの都市では迫害や虐殺の対象となった。ユダヤ教徒に被害が少なかったのはミツワーにのっとった生活のためにキリスト教徒より衛生的であったという説がある一方、実際にはゲットーでの生活もそれほど衛生的ではなかったとの考証もある。

なお、有効なワクチンは存在しない

※2

天然痘 日本でも、過去には定期的な大流行を起すことで知られていた。天平年間に遣唐使や遣新羅使を通じて侵入したと考えられる天然痘が西日本を中心に蔓延(天平の疫病大流行)し、737年(天平9年)、平城京では政権を担当していた藤原四兄弟が相次いで死去した。聖武天皇が東大寺大仏を建立した背景にも飢饉や政治的混乱とならんで悪疫の流行があった。摂関政治が隆盛期をむかえた994年にも大流行して藤原道長の兄、藤原道隆、藤原道兼はともに天然痘のために死去したといわれる(ただし、前述のように麻疹とする説もある)。また、京都市百万遍に所在する浄土宗知恩寺(左京区田中門前町)は、京都に天然痘が大流行していた1331年、後醍醐天皇の勅により百万遍念仏を行い疫病を治めたことから「百万遍」の寺号が下賜されたものである

その後も歴史上の著名人物で天然痘に苦しんだ例は少なくない。「独眼竜」の異名で知られる奥州の戦国大名、伊達政宗が幼少期に右目を失明したのも天然痘によるものであった。儒学者安井息軒、「米百俵」のエピソードで知られる小林虎三郎も天然痘による片目失明者であった。16世紀に布教のため来日したイエズス会の宣教師ルイス・フロイスは、ヨーロッパに比して日本では全盲者が多いことを指摘しているが、後天的な失明者の大部分は天然痘によるものと考えられる。なお、江戸時代にあっては、疱瘡除けの神として、さかんに源為朝の肖像が描かれ、「疱瘡絵」(赤絵)と呼ばれた。これは、八丈島に疱瘡(天然痘)が流行しなかったのは、この島に流された為朝が疱瘡神を押さえ込む力があったためと信じられていたためであった

また、源実朝、豊臣秀頼、吉田松陰、夏目漱石は顔にあばたを残し、上田秋成は両手の一部の指が大きくならず、結果的に小指より短くなるという障害を負った。孝明天皇の急死は幕末の政局に大きな影響を及ぼしたが、これも天然痘によるものであったと記録されている。天皇自身が当時かなり普及し始めていた種痘を嫌悪したために天然痘に対して無防備であったといわれているが、なお根強く暗殺説を唱える人もいる。蘭学者の緒方洪庵は幼少時に発症しており、のちに種痘の普及による天然痘対策に尽力した。これはやがて江戸幕府直轄の種痘所に発展し、のちの東京帝国大学医学部の前身となった。1955年の患者を最後に、日本では天然痘は根絶されている。

※3

結核は、産業革命後に「世界の工場」と呼ばれて繁栄したイギリスで大流行した。最も繁栄を謳歌していたはずの1830年ころのロンドンでは5人に1人が結核で亡くなったといわれている。当時の労働者は賃金が低く抑えられていたうえに1日15時間もの長時間労働が一般的であった。また、急激な都市への人口集中によってスラムが形成され、人びとは生活排水をテムズ川などの河川に投棄し、その川の水を濾過して飲料水とするなど、生活環境も劣悪であった。過労と栄養不足が重なり、抵抗力が弱まったことから結核菌が増殖し、非衛生的な都市環境がそれに拍車をかけたものと考えられる

これは、一面では産業革命が各国へ拡大し、普及したことにともなってイギリス発で結核が広がることともなった。明治初年、日本からイギリスへの留学生がそこで結核にかかり、学業半ばで帰国したり、亡くなったりするケースも多かったのである

日本では、明治初期まで肺結核を称して癆痎(ろうがい)と呼んだ。新選組の沖田総司、幕末の志士高杉晋作はともに肺結核のために病死した。正岡子規も結核を病み、喀血後、血を吐くまで鳴きつづけるというホトトギスに自らをなぞらえて子規の号を用いた。陸奥宗光石川啄木樋口一葉、立原道造、堀辰雄、高山樗牛、国木田独歩、竹久夢二長塚節中原中也新美南吉梶井基次郎瀧廉太郎、佐伯祐三、新島襄なども結核で亡くなっている。昭和天皇の弟でスポーツ振興に尽くした秩父宮雍仁親王の1953年(昭和28年)の死去も、死因は結核といわれている

近代において、特に犠牲のひどかったのは、紡績工場ではたらく女工であった。細井和喜蔵の『女工哀史』にみられるように、ここでも長時間労働や深夜業による過労と栄養不足、集団生活が大きな原因となっているが、工場内では糸を保護するため湿度が高かったことも結核菌の増殖をおおいに助けることとなった。日本で結核による死亡者が最も多かったのは1918年であった。このとき、人口10万人あたり257人が亡くなっており、1991年には人口10万人あたり2.7人にまで低下したが長い間、日本人の「国民病」であった。また、第二次世界大戦前は、徴兵され、狭い兵舎で集団生活を送る若い男性に結核が蔓延した。1935年から1950年までの15年間、日本の死亡原因の首位は結核であり、「亡国病」とも称された

日本では1889年に兵庫県須磨浦(神戸市須磨区)に最初の結核療養所が民間の手によって創設されたが、国立結核療養所官制の公布はようやく1937年になってからのことで、それによって茨城県那珂郡に最初の国立結核療養所として村松晴嵐荘(現在の国立病院機構茨城東病院)が営まれた

結核については、徳富蘆花の『不如帰』、堀辰雄の『風立ちぬ』『菜穂子』、久米正雄の『月よりの使者』、トーマス・マンの『魔の山』など結核患者やそれをめぐる人間関係、サナトリウムでの生活などを題材、舞台にした小説も多い。

結核菌は1882年、細菌学者ロベルト・コッホにより発見され、1943年にはセルマン・ワクスマンとワクスマン研究室の学生であったアルバート・シャッツによるストレプトマイシンなどの抗生物質があらわれて結核は完治する病気となって、患者はいったん激減した。

 

セルマン・ワクスマン

しかし、近年、学校や老人関係施設、医療機関等での集団感染が増加しており、結核治療中の患者は日本だけで約27万人にのぼり、新たな結核患者が年間3万人も増加している。世界保健機関(WHO)の推計では世界人口60億人の3分の1にあたる20億人が結核菌に感染していると発表している。これは、抗生物質の効かない耐性結核菌の発生によっており、「菌の逆襲」 とよばれることがある。また、後天性免疫不全症候群(AIDS)との結びつきが指摘され、「今や結核対策はAIDS対策でもある と考えられるにいたっている。

※4

スペイン風邪

 

スペイン風邪の患者でごった返すアメリカ軍の野戦病院(アメリカ合衆国・カンザス州)

鳥インフルエンザの一種と考えられるスペイン風邪は、1918年、アメリカ合衆国の兵士の間で流行しはじめ、人類が遭遇した最初のインフルエンザの大流行(パンデミック)となり、感染者は6億人、死者は最終的には4000万人から5000万人におよんだ。当時の世界人口は12億人程度と推定されるため、全人類の半数もの人びとがスペイン風邪に感染したことになる。この値は、感染症のみならず戦争や災害などすべてのヒトの死因の中でも、もっとも多くのヒトを短期間で死に至らしめた記録的なものである。

死者数は、第一次世界大戦の死者をはるかに上まわり日本では当時の人口5500万人に対し39万人が死亡、アメリカでは50万人が死亡した。詩人ギヨーム・アポリネール、社会学者マックス・ヴェーバー、画家エゴン・シーレ、劇作家エドモン・ロスタン、作曲家チャールズ・ヒューバート・パリー、革命家ヤーコフ・スヴェルドロフ、音楽家チャールズ・トムリンソン・グリフスが亡くなっており、日本でも、元内務大臣の末松謙澄、東京駅の設計を担当した辰野金吾劇作家の島村抱月、大山巌夫人の山川捨松皇族の竹田宮恒久王、軍人の西郷寅太郎などの著名人がスペイン風邪で亡くなっている。「黒死病」以来の歴史的疫病で、インフルエンザに対する免疫が弱い南方の島々では島民がほぼ全滅するケースもあった。

 

 

以下は、藤原辰史:パンデミックを生きる指針より

スペイン風邪と新型コロナウイルス新型コロナウイルスの活動が鎮静ではなく、拡散の方向に向かっているいま、希望的観測から頼りうる指針を選別していくため参考にすべき歴史的事件は、SARSやエボラ出血熱よりも「スペイン風邪」、すなわち、スパニッシュ・インフルエンザだと私は考える。百年前のパンデミックである。アメリカを震源とするこのインフルエンザの災いは、戦争中の情報統制で中立国だったスペインからインフルエンザの情報が広まったため、スペイン人にとっては濡れ衣にほかならない名前が歴史の名称となった。1918年から1920年まで足掛け3年かけて、3度の流行を繰り返し、世界中で少なく見積もっても4800万人、多く見積もって一億人の命を奪い(山本太郎『感染症と文明——共生への道』岩波新書、2011年)、世界中の人びとを恐怖のどん底に陥れた。そのわりに教科書でも諸歴史学会でもほとんど取り上げられなかった世界史の一コマである。私は、第一次世界大戦期ドイツの飢餓について研究を進めていく過程で(『カブラの冬——第一次世界大戦期ドイツの飢饉と民衆』人文書院、2011年)、多くの民間人をも苦しめたスパニッシュ・インフルエンザについて調べたことがあるが、現状のパンデミックと似ている点が少なくないことに気づく。どちらもウイルスが原因であり、どちらも国を選ばず、どちらも地球規模で、どちらも巨大な船で人が集団感染して亡くなり、どちらも初動に失敗し、どちらもデマが飛び、どちらも著名人が多数死に、どちらも発生当時の状況が似ている

ただ、当時は、インフルエンザのウイルスを分離する技術が十分に確立されておらず、医療技術的には現在の方が有利、地球人口が17億程度だった当時と、75億人まで増えた現在とでは過去の方が有利だ。新聞以外にSNSも含め多くのメディアが必要・不必要にかかわらず情報を大量に発信しているのも現在の特徴であり、正直、どちらに転ぶかわからない。百年前はWHOも存在しなかったので、本来であれば現在の方が有利だと思いたいけれど、なかなかそう思いづらいのは報道の通りである。

百年前の日本はちょうど米騒動とシベリア戦争(シベリア出兵)の時代である。当時、アジアもヨーロッパも北米大陸にも、これまであり得ないほどの人の移動があった。第一次世界大戦の真っ只中だったからである。すでに1918年の春からインフルエンザが流行っていたアメリカから、多数の若い男たちが輸送船に乗ってヨーロッパにわたっていた。換気が悪く、人口密度が高い船内でどんどん感染が広がり、健康そのものだった若者が次々に死んでいった。ヨーロッパにはアジアからも多くの人たちが労働者として雇われていた。植民地である仏領インドシナからはフランスへ、インドやビルマからはイギリスへ、中国からは苦力が多数ヨーロッパに上陸していた(東南アジアの第一次世界大戦については、早瀬晋三『マンダラ国家から国民国家へ——東南アジア史のなかの第一次世界大戦人文書院、2012年)。やがて、アジアにも感染は拡大し、日本でも約40万人前後が亡くなったと言われている。

インフルエンザがここまで世界に広がり、多くの兵士たちが死んでいった理由として、戦争中の衛生状態や栄養状態が考えられた。環境史家のアルフレッド・W・クロスビーによれば、兵士は、体調不良を感じても衛生的に悪い条件で無理して作業に従事するため、悪化しやすく、感染しやすかったという。銃後は食糧不足に悩んでおり、やはりインフルエンザ・ウイルスの格好の餌食となった。しかも当時兵士たちを悩ませていた一つが虫歯だったことを考えれば(Ruchel Duffett, The Stomach for Fighting: Food and the Soldiers of the Great War, Manchester University Press, 2012, p. 21.)、ウイルスの主な生存場所である口腔の衛生状態は相当に悪かっただろう。

だからといって、いま、世界規模で繰り広げられるような戦争がなかったことを寿ぐことはできない。ここ十年の人の移動の激しさは当時の比ではない。その最大の現象は昨今のオーバーツーリズム(観光地にキャパシティ以上の観光客が押し寄せること)である。かつての兵士はいまのツーリストである。船ではなく飛行機で動くツーリストたちの動きは、頻度と量が桁違いだ。それが今回の特徴である。

スペイン風邪の教訓

スパニッシュ・インフルエンザの過去は、現在を生きる私たちに対して教訓を提示している。クロスビー史上最悪のインフルエンザ——忘れられたパンデミック』(西村秀一訳、みすず書房、2004年)を参考にしつつ、まとめてみたい。

第一に、感染症の流行は一回では終わらない可能性があること。スパニッシュ・インフルエンザでは舞い戻り」があり、三回の波があったこと。一回目は四ヶ月で世界を一周したこと。一回目よりも二回目が、致死率が高かったこと。新型コロナウイルスの場合も、感染者の数が少なくなったとしても絶対に油断してはいけないこと。ウイルスは変異をする。弱毒性のウイルスに対して淘汰圧が加われば、毒を強めたウイルスが繁殖する可能性もある。なぜ、一回の波でこのパンデミックが終わると政治家やマスコミが考えるのか私にはわからない。ちょっと現代史を勉強すれば分かる通り、来年の東京五輪が開催できる保証はどこにもない。

第二に、体調が悪いと感じたとき、無理をしたり、無理をさせたりすることが、スパニッシュ・インフルエンザの蔓延をより広げ、より病状を悪化させたこと。何より、軍隊組織に属する兵士たちの衛生状況や、異議申し立てができない状況を考えてみるとわかる。過労死や自殺者さえも生み出す日本の職場の体質は、この点、マイナスにしか働かない。

第三に、医療従事者に対するケアがおろそかになってはならない。スパニッシュ・インフルエンザを生きのびた人たちの多くが、医師や看護師たちの献身的な看病で助けられたと述懐している。目の前の患者の命がかかっている場合、これらの人たちは、多少自分が無理しても助けようとすることが多いことは容易に想像できよう。しかし、いうまでもなく、日本の看護師たちは低く定められた賃金のままで、体を張って最前線でウイルスと戦っていることを忘れてはならない。世界現代史は一度だって看護師などのケアの従事者に借りを返したことはないのである。

第四に、政府が戦争遂行のために世界への情報提供を制限し、マスコミもそれにしたがっていたこと。これは、スパニッシュ・インフルエンザの爆発的流行を促進した大きな原因である。情報の開示は素早い分析をもたらし、事前に感染要因を包囲することができる。

第五に、スパニッシュ・インフルエンザは、第一次世界大戦の死者数よりも多くの死者を出したにもかかわらず、後年の歴史叙述からも、人びとの記憶からも消えてしまったこと。それゆえに、歴史的な検証が十分になされなかったこと。新型コロナウイルスが収束した後の世界でも同じことにならぬよう、きちんとデータを残し、歴史的に検証できるようにしなければならない。とくにスパニッシュ・インフルエンザがそうであったように、危機脱出後、この危機を乗り越えたことを手柄にして権力や利益を手に入れようとする輩が増えるだろう。醜い勝利イヴェントが簇生(ぞくせい)するのは目に見えている。だが、ウイルスに対する「勝利」はそう簡単にできるのだろうか。人類は、農耕と牧畜と定住を始め、都市を建設して以来、ウイルスとは共生していくしかない運命にあるのだから(たとえば、ジェームズ・C・スコット『反穀物の人類史——国家誕生のディープヒストリーみすず書房、2019年)。もしも顕彰されるとすれば、それは医療従事者やケースワーカーの献身的な働きぶりに対してである。

第六に、政府も民衆も、しばしば感情によって理性が曇らされること。百年前、興味深い事例があった。「合衆国公衆衛生局は、秋のパンデミック第二波の真っ只中、ほかにやるべき大事なことが山ほどあったにもかかわらず、バイエル社のアスピリン錠の検査をさせられていた」。これは、「1918年当時の反ドイツ感情の狂信的なまでの高まり」が、変な噂、つまり、ドイツのバイエル社が製造していたアスピリンにインフルエンザの病原菌が混ぜられて売られているという噂が広まっていたためである(クロスビー『前掲書』259頁)。

現在も、疑心暗鬼が人びとの心底に沈む差別意識を目覚めさせている。これまで世界が差別ととことん戦ってきたならば、こんなときに「コロナウイルスをばら撒く中国人はお断り」というような発言や欧米でのアジア人差別を減少させることができただろう。あるいは、政治家たちがこのような差別意識から自由な人間だったら、きっと危機の時代でも、人間としての最低限の品性を失うことはなかっただろう。そしてこの品性の喪失は、パンデミック鎮静化のための国際的な協力を邪魔する。

第七に、アメリカでは清掃業者がインフルエンザにかかり、ゴミ収集車が動けなくなり、町中にごみがたまったこと。もちろん、それは都市の衛生状況を悪化させること。医療崩壊ももちろん避けたいが、清掃崩壊も危険であること。

第八に、為政者や官僚にも感染者が増え、行政手続きが滞る可能性があること。たとえば、当時のアメリカの大統領ウッドロウ・ウィルソンも感染者の一人である。彼が英仏伊と四カ国対談の最中に三九・四度の発熱で倒れ、病院に入院している間、会議の流れが大きく変わり、ドイツへの懲罰的なヴェルサイユ条約の方向性が決まってしまった。

以上、藤原辰史:パンデミックを生きる指針より。

上記、伝染病に罹った偉人の生と死を辿るのも、この際、大変に有意義だと思う。