塩の道

かつて宮本常一(1907~1981)という民俗学の大家が居た。

日本の村・海をひらいた人びと』(ちくま文庫、1995年5月)

忘れられた日本人』(未來社、1960年/岩波文庫、1984年)

ふるさとの生活』(朝日新聞社、1950年/講談社学術文庫、1986年)

瀬戸内海の研究:島嶼の開発とその社会形成、海人の定住を中心に』(未來社、1992年)

など多数あり、とりわけ僕は、

塩の道』(講談社学術文庫、1985年3月)が面白かった。

僕が大学1年生だった1977年のこと、上田正昭教授(1927~2016)は、

「文化人類学」の講義で、宮本常一の「塩の道」を紹介した。

塩の道(しおのみち)は、塩や海産物を内陸に運ぶのに使われた道のことをいう。また反対に内陸からは、山の幸(食料に限らず、木材や鉱物も含む)が運ばれた道でもある。製塩が化学製法に代わり、専売法に依る規制がかけられる以前は海辺の塩田に頼っていたことから、日本の各地で、海と山を結ぶかたちで数多くあった。日本各地にあった塩の道は、現在も整備された形で物流の主要なルートとして残っている。

日本海側の千国街道(糸魚川 – 松本・塩尻)や北国街道(直江津 – 追分)、太平洋側の三州街道(岡崎 – 塩尻)、秋葉街道(御前崎 – 塩尻)などが日本の塩の道を代表する。日本では、全国各地に塩の運搬路はいくつもあり、特に雪深い内陸地域に住む住人にとって、冬場は漬物や味噌を作って保存するなど、塩は生活に欠かすことのできないものであることから、重要な生活路であった。また、宿場町やその周辺は藩によって重点的な開発が行われた例もある

これらの街道沿いには、宿場町、城下町、神社、寺院があるほか、当時の道標、道祖神、二十三夜塔、庚申塔、馬頭観音・牛頭観音、塩倉(現・長野県小谷村千国)、牛方宿が残っていたり、番所(長野県小谷村千国)が復元されているほか、周辺の自然をジオパークとして整備し地域振興にも利用される例もある。

塩の道は日本全国にいくつもあり、内陸地へは場所によって様々なルートで運ばれてきた。特に日本海側の越後と信州を結ぶ千国街道(糸魚川 – 松本・塩尻)が塩の運搬に関する遺構も残されていて良く知られており、太平洋側の遠州と信州を結ぶ秋葉街道(相良 – 塩尻)もまた「塩の道」であった。地名になっている塩尻とは「塩の道の尻」のことで、海で採れた塩の運搬路の終着点を意味しているまた、長野県上田市にも塩尻の地名が残されているところがあり、千葉産の塩が中山道によって運ばれたほか、甲州街道や三州街道も塩の運搬に用いられた

天竜川の上流の塩尻という地名は、tail end of salt だという話はよく分かる。

日本海と太平洋のどちらに川が流れ込むのかという中央分水嶺【日本の脊梁(spine)】は、

北海道の宗谷岬から青森県・山口県を経て鹿児島県大隅半島の先の佐多岬まで1本通っていて、

それが、長野県では、塩尻のあたりだということだ。

 

 

塩の道』では、‘山幸彦’が年に一度、奥地の川沿いの木々を伐採して川に流す

チエーンソーやダムなど無い時代だ。

途中で岩や浅瀬に引っかかった材木を、鳶口のような道具を使いながら、

本流に流し、水流を利用して運び、川沿いに下っていって、木材を海岸の河口の浜に積み上げて乾燥させる

それを燃料に鉄の大釜で、塩田から汲んだ濃縮海水を煮詰め梅干塩鯖塩蔵品の形で甕に入れて内陸に運ぶ

日本海側では、姫川河口の糸魚川・太平洋側では、天竜川河口の御前崎から、塩は内陸へ、

この循環のtail end of salt が、塩尻だ。

僕は、宮本常一の『塩の道』に、日本人が営々と築いてきた庶民史のロマンを感じる。

信州以外でも、塩以外の物流でも、

例えば、岐阜県飛騨高山は、神通川筋の物流や文化交流があって、県庁所在地の岐阜以上に八尾・富山や岩瀬と文化的に近い。

世界遺産の岐阜県白川郷も、庄川筋の物流や文化交流があって、県庁所在地の岐阜以上に城端・高岡や伏木と文化的結びつきが強い。

京都は、若狭の小浜と、鯖街道で結びついていて、熊川宿や朽木が、その通り道になっている。川筋ロジスティック文化圏だ。

物流があれば、婚姻も川筋の交流を介して、域内で行われた。

奥琵琶湖に塩津という地名があるが、若狭の塩や海産物は、ここから五十石船に乗せて堅田・大津・長浜・近江八幡や彦根に運ばれた。

 

ドイツにも塩街道(Alte Salzstraße)があり、

ドイツ観光街道の一つで、リューネブルクとリューベックを結ぶ昔の商業路である。ドイツ語の直訳では「昔の塩街道」である。

ハンザ同盟の時代、リューネブルクの岩塩はその大半が北海の水産加工業で、ニシンの塩漬けの材料として北方ドイツに輸出されていた。その主要積出港がリューベックで、この町がハンザ同盟の首都にして、バルト海沿岸の最も重要な商業港でもあった。今日でも当時使われていた塩倉庫が残されているが、そこに積み出しまで塩は保管されたのである。
 
甲斐の武田信玄(1521~1573)が、駿河の今川や相模の北条と対立して、塩の入手が困難になった時に、
越後の上杉謙信(1530~1578)が、武田に塩を贈ったという美談が有名だが、後世の創作ではないかという説もある。※1
 
 
さて、1905に日本では、塩専売制度が制定され、1949年に日本専売公社が設立、1997年92年間続いた塩専売制度は廃止され、
生活用塩の供給や緊急時に備えた備蓄などの機能を財務大臣の指定を受けた塩事業センターが担う体制へ
NaCl99.99%精製塩は、ミネラルバランスが悪いので、生活習慣病の元凶となる。
 
 
 

昭和40年代の話だが、長野県の保健婦さんが中心となって、公衆衛生指導の一環として、食事の減塩を推進した。

食塩の摂取は6g/dayまでに抑えましょう。」

「ごはんに野沢菜漬ばかりで食べないで、タンパク質(肉・魚・乳製品・卵・豆類)などもバランスよく摂りましょう

味噌汁は具沢山にしましょう。」

「喫煙は受動喫煙も含めて、控えましょう。」等々、、、

その結果、平均寿命の劇的な改善が見られ、長野県の男性は、平成の初めには、都道府県別平均寿命全国1位になった。

これは、公衆衛生指導の輝かしい成果として、語られる事実だ。

 

 

We’re longing for the sea.

過去の塩についてのエントリーまとめ↓

 

僕は、海洋深層水で漬物を漬けている

フランスではUne mère母の中にMer海があり、日本では海の中に母がいる

滑川市のアクアポケットへ行って、海洋深層水を購入してきた

塩水ばかりじゃふやけてしまう?

ギョギョ!ペンギンの相次ぐ死、塩分与えすぎが原因?

塩で歯磨き

血圧降下に効果

 

 

 

 

 

 

 

※1

謙信が信玄に塩を送ったという美談は、後世の創作?

宿敵 上杉謙信VS武田信玄

 

「芳年武者旡類:弾正少弼上杉謙信入道輝虎」・『川中島百勇将戦之内』「明将 武田晴信入道信玄」

謙信と信玄との生涯に亘る因縁からか、それが転じて二人の間には友情めいたものがあったのではないかと現在でも推測されることがある。

信玄は永禄10年(1567年)に同盟国の駿河今川氏真との関係が悪化し塩止めを受けているが(「萩原芦沢文書」)、武田氏の領国甲斐と信濃は内陸のため、塩が採れない。これを見越した氏真の行動であったが、謙信はこの氏真の行いを「卑怯な行為」と批判し、「私は戦いでそなたと決着をつけるつもりだ。だから、越後の塩を送ろう」といって、信玄に塩を送ったという。この逸話に関しては信頼すべき史書の裏付けがなく、後世の創作ではないかとも考えられているが、少なくとも謙信が今川に同調して塩止めを行ったという記録はない。

この時、感謝の印として信玄が謙信に送ったとされる福岡一文字の在銘太刀「弘口」一振(塩留めの太刀)は重要文化財に指定され、東京国立博物館に所蔵されている。『日本外史』では信玄の死を伝え聞いた食事中の謙信は、「吾れ好敵手を失へり、世に復たこれほどの英雄男子あらんや」と箸を落として号泣したという。『関八州古戦録』でも同様の話を伝えられている。また、『松隣夜話』では信玄の死後3日間城下の音楽を禁止した。理由には「信玄を敬うというより武道の神へ礼を行なうため」と挙げている。「信玄亡き今こそ武田攻めの好機」と攻撃を薦める家臣の意見を「勝頼風情にそのような事をしても大人げない」と退けている。一方で上記の逸話は後世の創作の可能性もあり、謙信は信玄をかなり嫌っていたとも伝えられている。信玄が父親を追放したり、謀略を駆使して敵を貶めたりするのは謙信に言わせるところの道徳観に反しており、謙信は信玄の行いに激怒したという。信玄との利益を度外視した数々の闘争は、謙信が純粋に信玄を嫌っていたことが原因だという説もある。