萬世一系は、如何に上書き保存されてきたのか?

今回は、長いです。殆ど、Wikipediaからのコピペです。

興味関心のある方は、どこからでもお好きなところからどうぞ。

 

日本が、文字社会に入ったのは、8世紀からであり、

最古の歴史書は、残っているのが、

古事記712年成立日本書紀720年成立の2点のみだ。

現存する国内最古の歴史書は、『古事記』と『日本書紀』だが、記紀編纂以前にも歴史書はあったようである。

原典とされる「帝紀」や「旧辞」は、散逸して現存していないが、学者の多くはかつて実在したことを否定していない。

さらには、「帝紀」や「旧辞」にも原典があったと考えられている。

その歴史書または原資料らしきものが、『古事記』や『日本書紀』の中に記されている。

両書から、それらの書名を抜き出してみると以下の通りだ。

『古事記』序文

・「帝紀」(ていき)
・「本辞」(ほんじ)
・「旧辞」(きゅうじ)
・「帝皇日継」(すめらみことのひつぎ)
・「先代旧辞」(せんだいくじ)
・「先紀」(せんき)

『日本書紀』履中四年八月条

・「国史」(ふみひと)
・「四方志」(よものふみ)

『日本書紀』雄略二年七月条

・「旧本」(ふるふみ)

『日本書紀』雄略二十一年三月条

・「日本旧記」(にほんきゅうき)

『日本書紀』顕宗即位前記

・「譜弟」(かばねのついてのふみ)

『日本書紀』欽明二年三月条

・「帝王本紀」(すめらみことのもとつふみ)

『日本書紀』推古二十八年十二月条

・天皇記(すめらみことのふみ)
・国記(くにつふみ)

『日本書紀』皇極四年一月条

・旧本(ふるふみ)

『日本書紀』皇極四年六月条

・天皇記(すめらみことのふみ)
・国記(くにつふみ)

『日本書紀』天武十年三月条

・帝記(すめらみことのふみ)
・上古諸事(じょうこしょじ)

『日本書紀』持統五年八月条


・墓記(おくつきのふみ)

この中で、「帝紀」や「旧辞」と同じであろうと考えられている歴史書を整理すると以下のようになる。

◆「帝紀」と同じであろうと考えられている歴史書

「帝皇日継」・「先紀」・「天皇記」

◆「旧辞」と同じであろうと考えられている歴史書

「本辞」・「先代旧辞」・「上古諸事」・「国記」

現在、これらは影も形も無いので、今となっては全て闇の中だ。

乙巳の変において、船恵尺が蘇我蝦夷の自害の際、焼け落ちる邸宅にあった「天皇記」「国記」のうち、

「国記」を火中から取り出し、持ち出して中大兄皇子に献上したというが、これも現在残っていない。

古事記の序文を読むと、「帝紀」や「旧辞」は諸氏族も所有していたようである。

しかし、それらは諸氏族が自家に都合のいいように改竄した、虚偽の多い異本であり、

天武朝の頃には相当数の異本が存在していたとみられる。

それを憂えた天武天皇が、国家運営、天皇政治の基盤となる正しい歴史書を後世に残すため、

「帝紀」と「旧辞」の改修作業を指示したと記している。

記紀編纂以前に日本の歴史書があったとすれば、それはいつごろ成立したと推測できるだろうか。

日本史研究家の倉西裕子氏は、日本書紀の”皇極四年六月条”と”推古二十八年十二月条”に見える

「天皇記」と「国記」は、”推古二十八年十二月条”に、”録”、つまり「書を編んだ」という表現があることから、

日本における正史編纂は、遅くとも推古二十八年(620年)には行われたであろうと見ている。

日本書紀に見られる最も古い書は、”履中四年八月条”(5世紀半ば)の「国史」と「四方志」であるが、これが史書であるかどうかは不明だ。

記録の媒体が紙で、紙は文字を記すために使われたと考えるならば、

国内における紙作りの起源についても考えてみる必要がある。

紙作りは、日本で自然に紙漉きが発生したのか、あるいは渡来人によって伝わったのかは定かではない。

国内における紙漉は、福井県今立町が最も早いとされており、6世紀初頭には紙漉きが始まったとする伝承がある。

そうなると、既に6世紀初頭には、紙に文字を記録する文化や習慣があったとみていいかもしれない。

4世紀末には、東晋の僧、摩羅難陀が百済に仏教とともに製紙法を伝えている。

日本書紀の”応神天皇十五年秋八月条”(5世紀初頭)には、百済王が倭に遣わした阿直岐は、よく経典を読み、莵道雅郎子の師となったとある。

その経典の媒体が、紙・竹簡・木簡の何れかは不明であるが、紙である説が有力だ。

7世紀初頭に初めて国史が編まれたとするならば、

4,5世紀の大王の年譜や事績はどのようにして伝えられたのだろうか。

口伝でこれだけの情報量が伝えられたとは到底考えられない。

大雑把な推測になるが、5世紀半ば、いわゆる「倭の五王」の時代には、紙による媒体で国史が成立していたのではないだろうか。

それにしても、7世紀には実在したとされる「帝紀」や「旧辞」はどこにいってしまったのだろう。

当時の中央豪族のほとんどが所有していたのであれば、一つや二つぐらい残っていてもよさそうものだ。

やはりこれは、意図的に廃棄されたと見るのが自然だろう。つまり焚書である。

国家公認の歴史書が完成したのに、内容の異なる歴史書が並存すれば、律令体制の構築、天皇家の正統性維持に支障が出るからだ。

当然といえば当然の処置である。

おそらく記紀編纂事業が終了した直後に、「帝紀」や「旧辞」の異本や伝承記録は全て葬り去られたのだろう

勿論、そのことはどこにも記されてはいない。

 

『日本書紀』によると、崇神天皇10年に四道将軍(よつのみちのいくさのきみ)が、

それぞれ、北陸、東海、西道、丹波に派遣されたとある。

四道将軍は『日本書紀』に登場する皇族(王族)の将軍で、

大彦命(おおびこのみこと)

武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)

吉備津彦命(きびつひこのみこと)

丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)

の4人を指す

 

四道将軍の説話は単なる神話ではなく、豊城入彦命の派遣やヤマトタケル伝説などとも関連する王族による国家平定説話の一部であり、

初期ヤマト王権による支配権が地方へ伸展する様子を示唆していると考えられる。

事実その平定ルートは、4世紀の前方後円墳の伝播地域とほぼ重なっている。

最古の前方後円墳は3C.半ばで、大王陵と見られる大型の古墳を始めとする多くの前方後円墳が集中的に造られてきた畿内の古墳群では、

6世紀半ばに古市古墳群で前方後円墳の築造が終了した後、前方後円墳は造られないようになり、

6世紀後半になると、全国各地で前方後円墳が造られないようになっていく。

大王陵としても6世紀後半に造営されたとみられる丸山古墳か梅山古墳、または太子西山古墳を最後に前方後円墳から方墳へと変わった。

関東地方や周防など、一部の地域で7世紀初めから前半まで前方後円墳の築造が続いたケースもあるが、

おおむね6世紀末までに前方後円墳の築造は終了し、その後、首長墓は主に円墳ないし方墳に移行し、

大王墓など一部の首長墓は八角墳などの多角形墳に移行する。 

 

『記紀』『延喜式などの記述によれば、百舌鳥の地には仁徳天皇、反正天皇、履中天皇の3陵が築造されたことになっている。

しかし、それぞれの3陵として現在宮内庁が治定している古墳は、考古学的には、古い順に

履中17代天皇陵(上石津ミサンザイ古墳)→仁徳16代天皇陵(大仙陵古墳)→反正18代天皇陵(田出井山古墳)の順で築造されたと想定されており、

比定される天皇の代と古さに矛盾が生じている。このことから、

百舌鳥の巨大古墳の中で最も古く位置づけられる伝履中天皇陵を伝仁徳天皇陵にあてる見解もある。

しかし、この場合は後述する『延喜式』(10C.に成立)の記述と大きく食い違うことになる。

『古事記』では、オオサザキ(仁徳天皇)は83歳で崩御したといい、毛受之耳原(もずのみみはら)に陵墓があるとされる。

『日本書紀』には、仁徳天皇は87年(399年)正月に崩御し、同年10月に百舌鳥野陵(もずののみささぎ)に葬られたとある。

『延喜式』(平安時代の法令集)には、仁徳天皇の陵は「百舌鳥耳原中陵」という名前で和泉国大鳥郡にあり、

「兆域東西八町。南北八町。陵戸五烟。」と記述されている。

なお、「兆域東西八町。南北八町。」という敷地が他の陵墓と比較すると群を抜いて広大であることから、

ここに記される「百舌鳥耳原中陵」が当古墳を指していることは間違いないと考えられる。

「中陵」というのは、この古墳の北と南にも大古墳があるからで、北側は反正陵、南側は履中陵であると記されている。

墓の比定 倭の五王の活動時期において、大王墓は百舌鳥古墳群・古市古墳群(大阪府堺市・羽曳野市・藤井寺市)で営造されているため、

の墓もそのいずれかの古墳と推測される

これらの古墳は現在では宮内庁により陵墓に治定されているため、考古資料に乏しく年代を詳らかにしないが、

一説にの墓は誉田御廟山古墳(現在の応神天皇陵)に比定される。

 

第26代継体天皇が、第15代応神天皇の5世王であるとされ、126代の中の直系男子では最大の隔世だが、

一応、神武天皇由来のY遺伝子は、続いていることになっている

応神天皇継体天皇の時代は記録に乏しいので、数少ない記録の一つ一つに価値が高い。

中国の歴史書に倭国の五人の王が登場する。

倭の五王は、 である。

年代は413年~502までの間、朝貢したとされるが、

次回倭国が、遣隋使を派遣する(600年~618年:5回)までの約100年間は中国の歴史書に登場しない。

 

晋書』安帝紀 義熙9年(413年)是歳条では、高句麗と倭国が遣使して方物を献上したとする(一説にの遣使)。太平御覧』所引「義熙起居注」逸文では、この際の朝貢品として「倭国献貂皮人参等」と見える。

宋書列伝夷蛮伝 倭国の条(宋書倭国伝)では、永初2年(421年)に宋の武帝は詔し、倭が万里から貢物を修めているとして、 除授を賜う(爵号を与える)よう命じたとするまた元嘉2年(425年)には、はまた司馬の曹達を宋に遣わし、文帝に上表文を奉り方物(地方名産物)を献じた。 その後、が死んだのちに弟のが王に立ったとする

『宋書』本紀文帝紀 元嘉7年(430年)正月是月条では、倭国王が遣使して方物を献上したとする(またはの遣使か)。

梁書』列伝諸夷伝 倭の条(梁書倭伝)では、晋(東晋)の安帝の時に倭王の「」があり、賛が死ぬと弟の「」が立ったとする

 

413年記事について『晋書』安帝紀の高句麗・倭国の遣使記事に関しては、高句麗・倭の共同遣使説、個々の単独遣使説、高句麗単独遣使説(倭不遣使説)・史料誤引説が挙げられている。特に3番目の高句麗単独遣使説が特に有力視され、高句麗が倭との戦い(好太王碑文)で倭の虜囚を得て、それらを倭国使に仕立てたと想定される。「義熙起居注」に記される倭国が献じた貂皮・人参も、高句麗の特産物として著名なものになる(ただしこの「義熙起居注」の「倭国」は単に「高句麗」の誤記とする説もある)。背景として、高句麗は北燕と関係が悪化しており、倭を連れて重訳外交をすることで東晋に大国と見せる必要があったとされる(一方で倭には高句麗と共同遣使をする動機がない)。なお1番目の共同遣使説においては、『日本書紀』応神天皇37年2月条において阿知使主都加使主が「呉」へ赴く際に「高麗国」(高句麗)の道案内に従ったと見える記事との関連が指摘される。また『梁書』にも安帝時の賛()の登場を記すが、これは編者の桃思廉の潤色の可能性が高いとされる

421年の讃の任官は宋王朝建国の翌年で、高句麗・百済に遅れるため、これも前代の東晋時代には倭が外交を行っていなかったことの反映とする説がある。421年記事について『宋書』倭国伝の永初2年(421年)記事では、への除授とのみ記され讃が遣使したかは明記されないが、多くの見解では讃の遣使があったと解されている。この記事では除授の内容は記されないが、後世の例からして「安東将軍 倭国王」の官爵号の可能性が高いとされる[。確実な史料上では、3世紀の卑弥呼(親魏倭王)以来、約1世紀の空白(いわゆる「空白の4世紀」)を経て確認される王になる。ただし「倭王」でなく「倭国王」であり、中国からは通交が限られた遠隔地の国と認識された点が注意されるは、この「安東将軍」の任官によって将軍府(軍府/幕府)の設置および長史(文官管掌職)・司馬(軍事管掌職)・参軍といった僚属(府官)の設置が可能となっており、派遣された曹達の「司馬」もその府官制に則った官職と推測される。倭の司馬(次官)の遣使は、高句麗・百済の長史(長官)の遣使とは異なるものであり、軍事性を重視する倭の内情や、他国より優位に立とうとする倭の外交姿勢を表す可能性が指摘される。一方で大将軍府(高句麗・百済)では長史が筆頭で、将軍府(倭)では司馬が筆頭であったとする見方もある。ただし当時の曹達の実際は、軍官の実務に従事する職(実司馬)でなく、使節のための臨時的な職(虚司馬)であったと見られる。なお、讃の除授において「使持節 都督〇〇」の任官も明らかでないが、438年の珍の遣使で珍は「使持節 都督〇〇」を自称しているため、讃の時点では任官されていないと見られる

430年記事について『宋書』文帝紀の元嘉7年(430年)記事では、遣使主体は「倭国王」とのみ記され、名前を明らかとしない。これに関して、新王の遣使ならば冊封を受けるのが通例などとして主体をとする説が有力であるが、主体を珍とする説もある。天皇系譜への比定『日本書紀』・『古事記』の天皇系譜への比定としては、讃を応神天皇(第15代)・仁徳天皇(第16代)・履中天皇(第17代)のいずれかとする説が挙げられている。この説は「 = 雄略天皇」が有力視されることから、武以前の系譜と天皇系譜とを比較することに基づくが、『宋書』ではの関係が不明で一意に定まらないため、定説はない。応神天皇説では和風諡号の「」と「」の意通が指摘され、仁徳天皇説では和風諡号の「サザキ(鷦鷯/雀)」と「」の音通が指摘されるほか、記紀の事績の類似から応神天皇・仁徳天皇同一人物説もある。また履中天皇に比定する説は、武から4代遡ることによる。なお、記紀の伝える天皇の和風諡号として反正天皇までは「○○ワケ」であるのに対し、允恭天皇安康天皇雄略天皇に「ワケ」は付かないことなどから、允恭天皇以後の王統(以後の王統)の変質を指摘する説がある

 

欠史八代(けっしはちだい、かつては闕史八代または缺史八代とも書いた)とは、

『古事記』・『日本書紀』において系譜(帝紀)は存在するがその事績(旧辞)が記されない

第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人の天皇のこと、あるいはその時代を指す。

現代の歴史学ではこれらの天皇達は実在せず後世になって創作された存在と考える見解が有力であるが、実在説も根強い。

これら古代の天皇達の実在を疑問視する説を初めて提唱したのは、歴史学者の津田左右吉(1873年 – 1961年)である。

津田の初期の説では欠史八代に加えて、それに次ぐ崇神天皇・垂仁天皇・景行天皇・成務天皇・仲哀天皇

及びその后である神功皇后も存在を疑問視して「欠史十三代」を主張していた。

津田のこの説は戦前では不敬罪に当たるとして提訴されて1942年に有罪判決を受けたものの、第二次大戦後には古代史学の主流になった。

しかしその後の研究で崇神以降の実在性が強まり、現在の歴史学では2代から9代までの実在を疑う「欠史八代」説が主流となっている。

非実在説

欠史八代の天皇を非実在と考える代表的な根拠は以下の通り。

これらの八代の天皇は古代中国の革命思想である辛酉革命に合わせることで、皇室の起源の古さと権威を示すために偽作したという推測がある。

  • 「辛酉」とは干支のひとつで中国では革命の年と考えられ、古来より21回目の辛酉の年には大革命が起きる(讖緯説)とされてきた。那珂通世は、聖徳太子が政治を始めた601年(厳密には6世紀末とされるが、表立った活動の記録はない)が辛酉の大革命の年であるため、『日本書紀』の編者がそれに合わせて神武天皇が即位した神武天皇即位紀元を算出(21×60=1260よりAD601-1260=BC660〈西暦0年は存在しない〉)したと『上世年紀考』(1897年)で提唱した。現在の歴史学界ではこの那珂の説が定説となっている

2~9代に限らず古代天皇達はその寿命が異常なほど長い。たとえば神武天皇は『古事記』では137歳、『日本書紀』では127歳まで生きたと記されており、このことは創生期の天皇達が皇室の存在を神秘的に見せるために創作されたことを示唆している。

『日本書紀』における初代神武天皇の称号『始馭天下之天皇』と、10代崇神天皇の称号である『御肇國天皇』はどちらも「ハツクニシラススメラミコト」と読める。これを「初めて国を治めた天皇」と解釈すれば、初めて国を治めた天皇が二人存在することになる。このことから、本来は崇神が初代天皇であったが「帝紀」「旧辞」の編者らによって神武とそれに続く八代の系譜が付け加えられたと推測することができる。また、神武の称号の「天下」という抽象的な語は、崇神の称号の「国」という具体的な語と違って形而上的な概念であり、やはり後代に創作された疑いが強いといえる。

1978年、埼玉県稲荷山古墳出土の金錯銘鉄に「意富比垝(オホヒコ)」という人物からの8代の系譜が刻まれていたことが確認された。この「意富比垝」は上述の崇神天皇が派遣した四道将軍の一人・大彦命と考えられる。大彦命は8代孝元天皇の第一皇子のはずだが銘文には何ら記載がなく、鉄剣製作時(471年)までにはそのような天皇は存在しておらず、後の世になって創作された存在であることを暗に物語っている

4代・6代~9代の天皇の名は明らかに和風諡号と考えられるが、記紀のより確実な史料による限り和風諡号の制度は6世紀半ば頃に始まったものである。また、神武・綏靖のように伝えられる名が実名とするとそれに「神」がつくのも考え難く、さらに「ヤマトネコ」(日本根子・倭根子。「ネコ」とは一定の地域を支配する首長・王といった意味。)などという美称は記紀が編纂された7・8世紀の天皇の諡号に多く見られるもので後世的であり、やはりこれらの天皇は後世になって皇統に列せられたものと考える見方が妥当である

系譜などの『帝紀』的記述のみで事跡などの『旧辞』的記述がなく、あっても2代綏靖天皇が手研耳命(たぎしみみのみこと)を討ち取ったという綏靖天皇即位の経緯ぐらいしかない。これらは伝えるべき史実の核がないまま系図だけが創作された場合に多く見られる例である

すべて父子相続となっており兄弟相続は否定されている。父子相続が兄弟相続に取って代わったのはかなり後世になるため、これでは歴史的に逆行することになる。このことは上述の天皇の異常な長寿と考え合わせて、皇統の歴史を古く見せかけようとしたために兄弟相続など同世代間での相続を否定したと考えるべきである

陵墓に関しても欠史八代の天皇には矛盾がある。

第10代崇神天皇以降は、多くの場合その陵墓の所在地には考古学の年代観とさほど矛盾しない大規模な古墳がある。

だが第9代開化天皇以前は、考古学的に見て後世に築造された古墳か自然丘陵のいずれかしかない

その上、当時(古墳時代前~中期頃)築造された可能性のある古墳もなければ、弥生時代の墳丘墓と見られるものもない。

実在説

欠史八代の天皇を実在と考える代表的な根拠は以下の通り。

記紀歴史書説

記紀を歴史書と想定し、皇極天皇4年(645年)の乙巳の変とともに記紀以前の国記などの代表的な歴史書が火事で無くなったために記録が曖昧になってしまったと考える説。系図だけは稗田阿礼が記憶していたが、その他の業績の部分に関しては火事で焼失した歴史書と共に消え失せたと考える。

葛城王朝説

初代神武天皇から欠史八代までの系譜を10代の崇神天皇の一族とは別の王朝のものと考え、その王朝の所在地を葛城(現在の奈良県、奈良盆地南西部一帯)の地に比定する説。この葛城王朝は奈良盆地周辺に起源を有し、九州を含む西日本一帯を支配したが、九州の豪族である崇神天皇に併合されたと考える。この葛城王朝説は邪馬台国論争とも関連させて考えることができ、この説を発展させて邪馬台国は畿内にあったとして葛城王朝を邪馬台国に、崇神天皇の王朝を狗奴国にそれぞれ比定する説や、邪馬台国は九州にあったとして崇神天皇の王朝が邪馬台国またはそれに関連する国、あるいは邪馬台国を滅した後の狗奴国と考え、それが畿内に東遷したとする説もある。

プレ大和王権説

古くは茂真淵の説にまで遡り、崇神天皇が四道将軍の派遣等遠国への支配を固めていったのに対しそれ以前の天皇は畿内周辺のみが王権の届く範囲であったとする説。欠史八代の多くの大王は近隣の磯城県主と婚姻を結んでおり、后妃の数も孝安天皇以前は異伝があるにせよ基本的に一名であることなど、畿内の一族長に過ぎなかったとも考えられる。また、四道将軍は吉備津彦命が孝霊天皇の後裔、大彦命と建沼河別命が孝元天皇の後裔、彦坐王が開化天皇の後裔であるため欠史八代と崇神天皇に断絶を考えない説もある。

九州王朝説の古田武彦も神武天皇から武烈天皇まで歴代天皇については大和に存在した九州王朝の分王朝である近畿大王家の大王であって、継体天皇の時代まで断絶はなかったとしており、プレ大和王権説に近い立場であるといえる。

古代天皇の異常な寿命について

2~9代に限らず古代天皇の異常な寿命の長さは不自然だが、これは実在が有力視される21代雄略天皇にも見られ、これだけで非実在の証拠とはならない。讖緯説に則って歴史を遡らせたいならば、自然な長さの寿命を持つ天皇の存在を何人も創作して代数を増やせばよい。にもかかわらずそれをしなかったのは、帝紀記載の天皇の代数を尊重したためであろう。古代天皇達の不自然な寿命の長さが、かえって系譜自体には手が加えられていないことを証明していると考えることもできる。また、『古事記』と『日本書紀』の年代のずれが未解決であるため、史書編纂時に意図的な年代操作はないとして原伝承や原資料の段階で既に古代天皇達は長命とされていた可能性を指摘する説もある。さらに、先代天皇との親子合算による年数計算を考慮すべきとの説もある。

半年暦説
日本の伝統行事や民間祭事には(大祓や霊迎えなど)一年に二回ずつ行われるものが多いが、古代の日本では半年を一年と数えて一年を二回カウントしていたと考える『半年暦説』(一年二歳暦、春秋暦とも)もある。『魏志倭人伝』の裴松之注には「『魏略』に曰く、その俗正歳四節を知らず。ただ春耕秋収を計って年紀と為す」と記されており、古代の倭人が一年を耕作期(春・夏)と収穫期(秋・冬)の二つに分けて数えていた可能性が窺える。そのことを踏まえれば天皇達の異常な寿命にも不自然さがなくなり、『魏志倭人伝』の記述にある倭人が「百年、あるいは八、九十年」まで生きたという古代人としては異常な長寿についても説明がつく。皇室の存在を神秘的に見せるために長命な天皇を創作するのであれば旧約聖書の創世記に出てくるアダムのような飛び抜けた長命(930歳まで生きたとされる)にしてもよいのに二分の一に割って不自然な寿命になる天皇は一人も存在せず、このことも半年暦が使用されていたことを窺わせる。また、17代履中天皇以降から不自然な寿命が少なくなり、『古事記』と『日本書紀』の享年のずれがおおよそ二倍という天皇もおり(実在が有力な21代雄略天皇の享年は『古事記』では124歳、『日本書紀』では62歳と、ちょうど二倍。26代継体天皇も『古事記』43歳と『日本書紀』82歳で、ほぼ二倍)、この時期あたりが半年暦から標準的な暦へ移行する過渡期だったと推測することもできる。また、日本書紀の暦は20代安康天皇3年(456年)以降は元嘉暦が使用されているがそれ以前は書記編纂時に使われていた儀鳳暦で記述されており、このことから安康以降は元嘉暦による記録が存在したもののそれ以前は暦法といえるような暦が残っていなかったために便宜的に書記編纂時の儀鳳暦を当てはめたと考えられ、この時期に暦にまつわる大きな変革があったとも推測できる
一方、半年暦を採用した例は世界的にほとんど存在せず、また魏志倭人伝の記述においても「倭人は正しい暦を知らず、ただ農耕のリズムをもって1年としている」と解釈するのが妥当であり、半年暦は推測の域を出ていない。創世記の超長命との比較においても、千歳という荒唐無稽な長寿は神のものであり、人間天皇のものとすることは憚られたとも考えられる。

その他の実在説

  • 欠史八代を皇室(=ヤマト王権の長)以外の豪族の王とする説。後世の子孫たちが祖王を天皇家の先祖に据え、朝廷の支配を正当化しようとしたとする。モデルとなった人物の実在には諸説ある。上述の葛城王朝説もこれに含まれる。
  • 辛酉革命に合わせて神武即位紀元を定めたとする説には疑問がある。日本書紀においてこの年に「大革命」という表現に相応しい出来事は窺えず、逆算の起点となるような特別な取り扱いはなされていない
  • 『日本書紀』における神武天皇の称号『始馭天下之天皇』と、10代崇神天皇の称号『御肇國天皇』を「ハツクニシラススメラミコト」と読む訓み方は鎌倉・室町時代(あるいは平安末期)の訓み方であり、『書紀』編纂時のものとは異なっていた可能性がある。どちらも同じ意味であるならば、わざわざ漢字の綴りを変える理由が解らない。「高天原」などの用語と照応するならば、神武の称号の「天下」は後代で使われる形而上的な概念とは意味が違い、「天界の下の地上世界」といったニュアンスであろう。すなわち神武の『始馭天下之天皇』は「ハジメテアマノシタシラススメラミコト」などと読んで天の下の世界を初めて治めた王朝の創始者と解し、崇神の『御肇國天皇』はその治世にヤマト王権の支配が初めて全国規模にまで広まったことをと称讃したものと解釈すれば上手く説明がつく
  • 上述のように、稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣に8代孝元天皇の第一皇子大彦命の実在を示す系譜が刻まれていたことから、孝元天皇及びその直系親族や近親者も実在したと考える説。孝元の名前を刻まなかったのは、大彦命が孝元の皇子であることが広く知られていたためと考えられる。鉄剣に刻むスペースの問題を考えれば、孝元の名を省いたとしても不自然ではない。
  • 帝紀的部分のみがあって、旧辞的部分を全く欠くのは2~9代の天皇だけではない。 帝紀はもともと系譜的記事だけのものである。旧辞的記事のないことのみで帝紀を疑う理由にはならない。2~9代に相当する旧辞の巻が失われた可能性もある
  • 2代、3代、5代の天皇の名は和風諡号に使われる称号の部分がないため、実名として生前に使われた可能性が高い。7代~9代の天皇の名は明らかに和風諡号と考えられるが、諡号に使われる称号の部分を除けば7代は「ヒコフトニ」(彦太瓊・日子賦斗邇)8代は「ヒコクニクル」(彦国牽・日子国玖琉)9代は「ヒコオオビビ」(彦大日日・日子大毘毘)と実名らしくなり、実名を元に諡号が作られた可能性もある。また、記紀編纂時の天皇の諡号に多く見られる「ヤマトネコ」の美称はより後代の桓武や平城にも見られるものであり、その時代特有のものとは一概にいえない。また、『魏志倭人伝』などの国外の古代史料に見られる倭人の名(あるいは官名)と照応する部分も多く、やはり後世の造作とは言い切れない
  • すべて父子相続である点は確かに不自然だが、それだけでは非実在の証拠とはならない。むしろ後世に伝わった情報が少なかったために、実際は兄弟相続やその他の相続だったものも便宜的に父子相続と記されたとも考えられる。事績が欠けているのも同様に説明がつく。また、太田亮や白鳥清によると、神武天皇から応神天皇までの継承は父子継承だが長子相続でなく末子相続であり、末子相続は兄弟相続よりも古い習俗であるからむしろ実在の根拠になりうる。
  • 既述の通り欠史八代の多くは畿内の近隣豪族と婚姻を結んでいるが、もしもその存在が後世の創作であるとすれば後代の天皇達のように「皇族出身の女性を娶った」と記す方が自然である。また、『日本書紀』は欠史八代の皇后の名前について異伝として伝わる別の名前も載せているが、これらの皇后の存在が創作であるのならこのようなことをする理由がない

 

『記紀』によれば

 第26代継体天皇は、15代応神天皇の5世孫であり越前国を治めていた。

ところが25代武烈天皇は後嗣を残さずして崩御した。

そのため中央の有力豪族の推戴(すいたい)を受けて即位したとされる。

戦後、天皇研究に関するタブーが解かれると、5世王というその特異な出自と即位に至るまでの異例の経緯に注目が集まり、

元来はヤマト王権とは無関係な地方豪族が実力で大王位を簒奪し、

現皇室にまで連なる新王朝を創始したとする王朝交替説がさかんに唱えられるようになった

しかしながら傍系王族の出身という『記紀』の記述を支持する声も多く、

それまでの大王家との血縁関係については現在も議論が続いている。

『記紀』はいずれも、継体天皇を応神天皇の5世の子孫と記している。

また『日本書紀』はこれに加えて継体を11代垂仁天皇の女系の8世の子孫とも記している。

近江国高嶋郷三尾野(現在の滋賀県高島市近辺)で誕生したが、幼い時に父の彦主人王を亡くしたため、

母・振姫の故郷である越前国高向(たかむく、現在の福井県坂井市丸岡町高椋)で育てられ、

男大迹王(をほどのおおきみ)として5世紀末の越前地方(近江地方説もある)を統治していた。

 

『日本書紀』によれば、506年に武烈天皇が後嗣を定めずに崩御したため、大連・大伴金村、物部麁鹿火、大臣・巨勢男人ら有力豪族が協議し、

まず丹波国にいた14代仲哀天皇の5世の孫である倭彦王(やまとひこおおきみ)を推戴しようとしたが、

倭彦王は迎えの兵を見て恐れをなして山の中に隠れて行方不明となってしまった。

やむなく群臣達は越前にいた応神天皇の5世の孫の男大迹王を迎えようとしたものの、

疑念を持った男大迹王は河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)を使いに出し、

大連大臣らの本意に間違いのないことを確かめて即位を決意したとされる。

翌年の507年、58歳にして河内国樟葉宮(くすばのみや)において即位し、武烈天皇の姉にあたる手白香皇女を皇后とした。

即位19年後の526年にして初めて大倭(後の大和国)に入り、都を定めた。

翌年に百済から請われて救援の軍を九州北部に送ったものの、新羅と通じた筑紫君・磐井によって反乱が起こり、その平定に苦心している(磐井の乱)。

対外関係としては、百済が上述のように新羅や高句麗からの脅威に対抗するためにたびたび倭国へ軍事支援を要請し、それに応じている。

また、『書紀』によれば継体6年(513年)に百済から任那四県の割譲を願う使者が訪れたとある。

倭国は大伴金村の意見によってこれを決定し、百済は返礼としてか翌年からより招いていた五経博士を遣わしている。

531年に皇子の勾大兄(安閑天皇)に譲位(記録上最初の譲位例)し、その即位と同日に崩御した。

崩年に関しては『古事記』では継体の没年を527年としており、そうであれば都を立てた翌年に死去したことになる。

『古事記』では没年齢は43歳、『日本書紀』では没年齢は82歳。

『日本書紀』によれば応神天皇5世の孫(曾孫の孫)で父は彦主人王、母は11代垂仁天皇7世孫の振媛(ふりひめ)である。

ただし、応神から継体に至る中間4代の系譜について『記紀』では省略されており、

辛うじて鎌倉時代の『釈日本紀』(『日本書紀』の注釈書)に引用された『上宮記』の逸文によって知ることが出来る。

これによると、男子の直系は

「凡牟都和希王(ほむたわけのおおきみ・応神天皇) ─ 若野毛二俣王 ─ 大郎子(意富富等王) ─ 乎非王 ─ 汙斯王(彦主人王) ─ 乎富等大公王(=継体天皇)」とされる。

『上宮記』逸文は近年、文体の分析によって推古朝の遺文である可能性が指摘され、

その内容の信憑性や実際の血統については前述の通り議論が分かれているものの、

原帝紀の編纂と同時期(6世紀中葉か)に系譜伝承が成立したものと考えられる

皇后は21代雄略天皇の孫娘で、24代仁賢天皇の皇女であり、武烈天皇の妹(姉との説もある)の手白香皇女である。

継体には大和に入る以前に複数の妃がいたものの、即位後には先帝の妹を皇后として迎えた。

これは政略結婚であり、直系の手白香皇女を皇后にする事により、既存の大和の政治勢力との融和を図るとともに、

一種の入り婿という形で血統の正当性を誇示しようとしたと考えられる。

継体にはすでに多くの子もいたが、手白香皇女との間に生まれた天国排開広庭尊(29代欽明天皇)を嫡男とした。

欽明天皇もまた手白香皇女の姉妹を母に持つ宣化天皇皇女の石姫皇女を皇后に迎え、30代敏達天皇をもうけた。

以上のように、大王家の傍系という自らの血の薄さを直系である皇后の血統により補填しようとした様子が窺える。

その後は、欽明天皇の血筋(天皇家Y遺伝子)が現在の皇室に至るまで続いている。

 

そして、1889年発布の大日本帝国憲法の第1条において「大日本帝国ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と規定している。

萬世一系の意義

慶応3年(1867年)10月、岩倉具視は、「王政復古議」に「皇家は連綿として万世一系礼学征伐朝廷より出で候」(原文カタカナ)と指摘した。これが「万世一系」の語の初出である。

1889年(明治22年)『(旧)皇室典範』制定に当たって伊藤博文は、皇位継承における万世不変の原則として、以下の3項目を挙げた

第一 皇祚を践むは皇胤に限る
第二 皇祚を践むは男系に限る
第三 皇祚は一系にして分裂すべからず

大日本帝国憲法では次のように記されている。

第一條
大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス

民間でも大日本帝国憲法に対抗して私擬憲法が盛んに作成されたが、ほとんどが万世一系に言及している。万世一系の例外規定を設けているのは『憲法草稿評林』のみで、「臣民中ヨリ皇帝ヲ撰立」と規定し、皇位継承者が断絶した場合の天皇の選挙制を提案した

 

万世一系の起源と正統性

 

天照大神

『古事記』には天照大神が孫のニニギに「この豊葦原水穂国は、汝の知らさむ国なり」とある。『日本書紀』には「葦原千五百秋瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫、就でまして治らせ。行矣。宝祚の隆えまさむこと、当に天壌と窮り無けむ」とある。

大日本帝国憲法第1条は万世一系を明文化したものである。

歴史

「万世一系」論の始まり

 

「日本は、王朝交代したことがない点で他国と基本的に異なる」という信念は、日本の王朝と同じくらい古くからあった。この主張について、十数世紀にわたって誇りを抱いたり、不思議に思う人々がいた。

大伴家持 (718頃-785)は『万葉集』を編纂した奈良時代有数の歌人である。大伴家持は自分が仕えた聖武天皇を褒め称える次のような和歌を残している(下記の現代語訳は日本学術振興会の英訳から)。

 

大伴家持

葦原(あしはら)の 瑞穂(みずほ)の国を 天降(あまくだ)り 知らしめしける 天皇(すめろき)の 神の命(みこと)の 御代(みよ)重(かさ)ね
天あまの日継(ひつぎ)と 知らし来くる 君の御代御代(みよみよ)敷きませる 四方(よも)の国には 山川を 広み淳(あつ)みと
奉る 御調宝(みつきたから)は 数え得ず 尽くしも兼ねつ — 大伴家持、『万葉集』巻一八
日本を天から下ってお治めになった天孫降臨の神々が治める時代を重ねて
天照大御神の後継ぎとして治めてこられた天皇の治世ごとに
治められる畿内周囲の国々は山も川も広々と豊かなので
奉る貢ぎ物や宝物は数えきれないほどで、挙げ尽くせない。 — 大伴家持、『万葉集』巻一八 (現代語訳)

この和歌では天皇の家系が長いと述べているが、どれほど長いかは言及していない。

 

聖徳太子

『日本書紀』は、神武天皇が即位した年を王朝の起点とした。聖徳太子(574-622)は、この日付を初めて定式化した。天皇の王朝に大いなる古さを付与しようとしたのである。この日付は日本人に自国の建国日として受けとめられた。国体(政治構造)の不変さの証拠とされることもしばしばだった。

神武天皇が創始した王朝は、「神の代」の祖先たちの系譜を引き継いでいるとも信じられていた。そのため、日本の王朝は永遠であり、万世一系であると考えられていた。

中国

王朝が非常に古いという主張は、自国民を感心させるためだけではなかった。国家としては日本より古いが、歴代王朝は日本より短命とされた中国に感銘を与えるためでもあった。いくつかの事例に照らせば、中国人は日本のこの主張を気にとめ、一目置いていたと言って良い。

新唐書』は唐の歴史をまとめた史書だが、日本の歴史も略述されている。「神の代」に属す日本の支配者33人がリストアップされている。『日本書紀』などが掲げており、「人の代」に属す歴代天皇58代(神武天皇から光孝天皇まで)も列挙されている。 楊億(ようおく)は『新唐書』の編纂に参加し、平安時代の日本の学僧である奝然(938-1016)が当時の中国皇帝にもたらした以下の情報について記録を残している。「王家はひとつだけで、64代引き続いておさめてきた(国王一姓相伝六四世)。行政・軍事の官職はすべて世襲である。」当時の天皇は円融天皇で、皇統譜によれば64代目にあたる。

宋史』は宋の歴史をまとめた史書である。そのなかの「日本伝」に、北宋の皇帝・太宗の反応を以下のように記述している

 

北宋の太宗

(太宗は)この国王は一つの姓で継承され、臣下もみな官職を世襲にしていることを聞き、嘆息して宰相にいうには「これは島夷(とうい。島に住む異民族のこと)にすぎない。それなのに世祚(代々の位)は“か久”(はるかにひさしい)であり、その臣もまた継襲して絶えない。これは思うに、古(いにしえ)の道である。」 — 北宋の太宗

日本人も、王朝の寿命の長短に関する中国との比較論に熱中した。北畠親房(1293-1354)の『神皇正統記』では以下のように論じている

 

北畠親房

モロコシ(中国)は、なうての動乱の国でもある。…伏羲(前3308年に治世を始めたとされる伝説上最初の中国の帝王。)の時代からこれまでに三六もの王朝を数え、さまざまな筆舌に尽くしがたい動乱が起こってきた。ひとりわが国においてのみ、天地の始めより今日まで、皇統は不可侵のままである。 — 北畠親房、『神皇正統記』

ヨーロッパ

 

16〜17世紀のヨーロッパ人も、万世一系の皇統とその異例な古さという観念を受け入れた。日本建国の日付を西暦に計算しなおして紀元前660年としたのは、ヨーロッパ人である。

ドン・ロドリーゴ・デ・ビベロはスペインのフィリピン臨時総督である。『ドン・ロドリゴ日本見聞録』に、日本人について以下のように記述している

彼らのある種の伝承・記録から知られるのは…神武天皇という名の最初の国王が君主制を始め、統治をおこないだしたのは、主キリスト生誕に先立つこと六六三年も前、ローマ創建から八九年後だということである。日本がまことにユニークな点は、ほぼ二二六〇年のあいだ、同じ王家の血統を引く者一〇八世代にもわたってあとを継いできたことである。 — ドン・ロドリーゴ・デ・ビベロ、『ドン・ロドリゴ日本見聞録』

当時の天皇は後水尾天皇で、皇統譜によれば108代目にあたる。

ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロンはスペインの貿易商人である。1615年、日本から以下のように報告している

彼らのもろもろの文書やきわめて古い書物は、最初の日本国王である神武天皇がその治世を始めたのは二二七〇年以上も昔だと明言している。 — ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロン、(日本からの報告)

ここでも日本建国を紀元前660年としている。

エンゲルベルト・ケンペルは長崎の出島のオランダ商館に勤務したドイツ人医師である。『日本誌』で以下のように説明している

 

エンゲルベルト・ケンペル

“宗教的世襲皇帝”の王朝は、キリスト以前の六六〇年がその始まりである。…この年からキリスト紀元一六九三年にいたるあいだ、すべて同じ一族に属する一一四人の皇帝たちがあいついで日本の帝位についた。彼らは、日本人の国のもっとも神聖な創建者である「テンショウダイシン」(天照大神、あまてらすおおみかみ)の一族の最古の分枝であり、彼の最初に生まれた皇子の直系である等々のことを、きわめて誇りに思っている。 — エンゲルベルト・ケンペル、『日本誌』

さらに、歴代天皇の名前と略伝を日本語文献のとおりに列記している。

江戸時代

 

江戸時代、尊皇家は天皇への尊崇と支持を高めるため、皇室の大変な古さと不変性を強調した。

山鹿素行(やまが そこう、1622〜85)は儒学と軍学の大家である。寛文9年(1669年)に著わした『中朝事実』で下のように論じている

 

山鹿素行

ひとたび打ち立てられた皇統は、かぎりない世代にわたって、変わることなく継承されるのである。……天地創造の時代から最初の人皇登場までにおよそ二〇〇万年が経ち、最初の人皇から今日までに二三〇〇年が経ったにもかかわらず……皇統は一度も変わらなかった。 — 山鹿素行、『中朝事実』

とはいえ、江戸時代の知識人全員が、太古的な古さという主張に賛成したわけではない。本多利明(1743〜1820)は蘭学を学んだ経世家である。寛政10年(1798年)の論考のなかでこう説いている。「世界最古の国はエジプトで6000年の歴史を有し、中国も3800年の歴史を主張しうるのにたいし、神武天皇即位からは1500年しか経っていないのだから、日本の歴史はずっと短い」。1500年というこの年代は、近代の学者が示唆する3世紀末に驚くほど近いと、ドナルド・キーンは指摘している

明治時代

 

福澤諭吉

 

新渡戸稲造

 

明治時代の多くの知識人は、皇室の永続性というドグマを受け入れ、誇りとしていた。福澤諭吉(1835-1901)も、皇室の永続性は近代化を推進する要素だと見なしていた。明治8年(1875年)に執筆した『文明論之概略』の「西洋の文明を目的とす」の一節にて、以下の持論を展開している。

わが国の皇統は国体とともに連綿れんめんとして外国に比類なし。……君[と]国[との]並立の国体といいて可なり。しかりといえども……これを墨守ぼくしゅしてしりぞくは、これを活用して進むにしかず。……君国並立のとうと由縁ゆえんは、古来わが国に固有なるがゆえに貴きにあらず。これを維持してわが政権をたもち、わが文明を進むべきがゆえに貴きなり。 — 福澤諭吉、『文明論之概略』

ただ、国の紀元についてのドグマは、その信奉を強制されていたわけではない。新渡戸稲造(1862-1933)はクリスチャンの教育者である。国際連盟の事務局長の職にあったとき、日本国外でだが、公式の場で紀元の正確さにはっきりと疑問を呈している。スウェーデンの首都・ストックホルムで開かれた日本・スウェーデン協会の会合の際、演説のなかで次のように述べた

本邦最初期の歴史編纂者たちは、八世紀におこなわれていた中国風の年代計算法を採用したがために、干支の六十年周期をおよそ一〇回分数えまちがった、と思われる。このため、本邦の歴史の始まりは六〇〇年ほどさかのぼらされた。……本邦初期の歴史から六世紀を差し引くなら、日本帝国の創建は、通常受け入れられている前六六〇年ではなくして……前六〇年ということになる。こうすれば、神武天皇はジュリアス・シーザーと同時代人ということになる。 — 新渡戸稲造、(日本・スウェーデン協会の会合の演説より)

戦前の萬世一系

万世一系は、戦前において、共和制や共産主義革命を否定する根拠とされた。また、日本は君民一体の国柄で、他国のように臣下や他民族が皇位を簒奪することがなく、臣民は常に天皇を尊崇してきたとする歴史観を形成した。さらに、日本は神の子孫を戴く神州であり、延いては世界でも優れた道義国家であるとする発想を生んだ。戦前には、国粋主義と結びついて皇国史観という歴史観を形成した。特に、明治維新から戦中までの期間には、国家公認の史観として重視され、大日本帝国憲法第1条にも記載されていた。

北一輝は自筆の『国体論及び純正社会主義』にて、「日本国民は万世一系の一語に頭蓋骨を殴打されことごとく白痴となる」と万世一系を批判した。この著書は刊行後すぐに発禁処分を受けた。

戦後の萬世一系

 

昭和天皇

 

第125代天皇上皇明仁

 

万世一系はもはや公式のセオリーとはされなくなったが、公式の場での談話や発言からは消えなかった。昭和52年(1977年)8月、那須御用邸での記者会見にて、昭和天皇は次のような説明をした

国体というものが、日本の皇室は昔から国民の信頼によって万世一系を保っていたのであります。 — 昭和天皇、(1977年8月、那須御用邸での記者会見)

日本国憲法は、天皇の祖先たちへの言及も、王朝の古代史的な古さへの言及もしていない。しかし、皇室の法的地位は、皇位の世襲の原則を再確認することで是認された。昭和41年(1966年)、王朝の起点である2月11日のまま、戦後廃止された「紀元節」がほぼ同義の「建国記念の日」として復活した。

平成2年(1990年)、明仁親王が天皇に即位した。即位にあたり、祖先および神々とのきずなを強調する上代からの儀式、「大嘗祭」が執り行われた。平成11年(1999年)、皇統を褒め称える「君が代」も、国旗国歌法により日本の国歌として確定された。

万世一系がうたわれた実例

大日本帝国憲法

明治22年(1889年)、近代国家の憲法として大日本帝国憲法が公布された。この憲法では、皇室の永続性が皇室の正統性の証拠であることを強調していた。『告文』(憲法前文)には、以下のような文章がある。

…天壤無窮ノ宏謨(こうぼ)ニ循(したが)ヒ惟神(かんながら)ノ宝祚ヲ承継シ… — 『大日本帝国憲法』告文
輝かしき祖先たちの徳の力により、はるかな昔から代々絶えることなくひと筋に受け継がれてきた皇位にのぼった朕は…

そして、憲法第1条にて「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と規定されたのである。近代的な政治文書で「万世一系」のような詩的な文言がもちいられたのは、これが初めてである。「万世一系」のフレーズは公式のイデオロギーの中心となった。学校や兵舎でも、公式な告知や発表文でも、広く使われて周知されていった。

君が代

明治13年(1880年)、日本の国歌として『君が代』が採用された。君が代は10世紀に紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑の4人の選者により編纂された『古今和歌集』に収録されている短歌の一つである。バジル・ホール・チェンバレンはこの日本の国歌を翻訳した。日本の国歌の歌詞とチェンバレンの訳を以下に引用する

 

君が代の楽譜

君が代は

千代に八千代に
さざれ石の
巌(いわお)となりて
苔(こけ)のむすまで

— 君が代

 

チェンバレン

汝(なんじ)の治世が幸せな数千年であるように
われらが主よ、治めつづけたまえ、今は小石であるものが
時代を経て、あつまりて大いなる岩となり
神さびたその側面に苔が生(は)える日まで

A thousand years of happy life be thine!
 Live on, my Lord, till what are pebbles now,
 By age united, to great rocks shall grow,
 Whose venerable sides the moss doth line.

日本の国歌も「天皇の治世」を奉祝する歌であり、皇統の永続性(万世一系)がテーマである。世界で最も短い国歌が世界で最も長命な王朝を称えている

国体の本義とは、昭和13年(1938年)、「日本とはどのような国か」を明らかにしようとするために、当時の文部省が学者たちを結集して編纂した書物である。

万世一系についての主張を以下に引用する

大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である。而してこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克く忠孝の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところである。この国体は、我が国永遠不変の大本であり、国史を貫いて炳として輝いてゐる。而してそれは、国家の発展と共に弥々鞏く、天壌と共に窮るところがない。我等は先づ我が肇国の事事の中に、この大本が如何に生き輝いてゐるかを知らねばならぬ。 — 国体の本義

その他の「万世一系」論

  • 朕祖宗ノ遺烈ヲ承ケ萬世一系ノ帝位ヲ踐ミ朕カ親愛スル所ノ臣民ハ即チ朕カ祖宗ノ恵撫慈養シタマヒシ所ノ臣民ナルヲ念ヒ……(大日本帝国憲法発布の詔勅)
  • 大日本國皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ繼承ス(旧皇室典範第一条)
  • 天佑ヲ保有シ万世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本帝国天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス(米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書)。
    • 詔勅や外交文書の冒頭では、このように「天皇」に対する修飾語として用いられることもあった。