銀閣寺 吉田山界隈 (全ては時間の関数だ)

村上華岳 「二月の頃」1911年(明治44年) 

絵は、村上22才時の京都市立絵画専門学校(京都市立芸術大学)卒業制作で、只者ではない技量を感じる。

また 、108年前の二月の、銀閣寺交差点付近が、のどかで  懐しく、いつまでも眺めていたくなる。

そして、百姓の耕す  手つき  までも 愛おしく、世の中が永遠であればいいと、心から思う。

よのなかは つねにもがもな  ふゆがれの たおこす をうなの くわでかなしも

世の中は  常にもがもな  冬枯れの 田起す嫗の  鍬手愛しも (詠み人 : 俺 )     

銀閣は、竹藪に隠れて見えず、その背後の月待山は(マツタケが成りそうな)アカマツ林で、

月待山の左上に目を凝らすと、如意ケ岳送り火の「」が見えるしかけになっている。↓

月待山の右手は平家物語「鹿ケ谷の陰謀」の舞台となった鹿ケ谷

朝鮮学校の裏山が禿げているのは、白川砂を採っていたんだろうか?

村上華岳より5才年長の橋本関雪が、白砂村荘を造営したのが1914年~なので、

白砂村荘は、銀閣寺交番南東の竹薮になっている湿地帯を埋めていったのだろう。

牛が荷車を引いて居る三叉路は現在、神楽岡通「サーチ進学教室」の角だ。

琵琶湖疏水の分線(蹴上〜松ヶ崎~紫明~堀川)は、明治23(1890)年竣工で、既に完成していて、

蹴上発電所ダムから、南禅寺水路閣を経て、哲学の道沿いに北流し、

鹿ケ谷通り北のドン付きの公衆便所の所で西にカーブして、

今出川通り北側の疏水のラインが、真直ぐに描かれている。

面白いのは、銀閣寺交番「なかひがし」の所で、白川と疏水とが直交しているのが、

この絵で はっきりわかることだ。

川と疎水が立体交差して、水が混ざらないというのは、大豊神社前を始め何ケ所かあるが、

かつては、高野川や賀茂川までもが疏水とサイホン式で立体交差していたと云う。

平成は  移りにけりな  令和へと  静こころなく 花の散るらむ  (詠み人 : 俺 )    

今現在(4月10日)も、桜の花びらが はらはらと 散って、

疏水各所の水面(みなも)に花の柵(しがらみ)を作っていることだろう。

1年前、平成30年4月放送のNHK「ブラタモリ」では、

京都市左京区の銀閣寺~京大農学部グラウンド(農G)~吉田山を散策した上で、

吉田山の地形は、非常に珍しい末端膨隆丘(まったんぼうりゅうきゅう)だという説明があったそうだ。

そうだというのは、俺は放送を視ていなくて、あとで聞いたからだ。

18才~60才の現在まで42年間 吉田山近辺に棲みついている俺としては、

滅相無い末端膨隆丘とは何ぞや?という疑問ばかりが、大きくなっていくので、

you tubeに(違法に) upされている動画や、各種記録を繋ぎ合わせて、

その説明の再現を試みることにした。

 

断層南北に4本走っていて、東から、

鹿ケ谷断層・岡崎断層・神楽岡断層・花折断層(滋賀県の今津から60km続く南端)である。

昔々、この一帯は、銀閣寺やバプテスト病院の辺りを扇頂とする扇状地で、

なだらかに南西に向かって傾斜があった。

その名残りで 吉田山山頂付近にも、沖積層を示す 拳大(こぶしだい)の石が見られる。

12,000年前頃の地殻変動で、南北に断層が相次いで走った

上記 断層4本のうち、

最も西の花折断層は、最長の60kmあり、

北は滋賀の今津から、塩鯖担いで朽木谷、R367をひた走り、農G東で段差(9m=76.7-67.7)を作り、廃墟と化した光華寮をかすめ抜け、

今出川通りは お地蔵さんで斜めに切裂いて、屋台のれんを振り分けて、吉田神社を拝みつつ、

白河支援学校の校門の鉢蓮を横目に、岡崎郵便局の裏を抜け、「蛸安」のたこ焼きで一杯飲るのが、南の末端となる。

西から2番目の神楽岡断層は短くて、「二月の頃」牛の三叉路を起点として、服部豆腐最寄の郵便ポスト迄の600m、

西から3番目の岡崎断層も短くて、真如堂の艮の隅(北東)日吉神社の猿を北端に、南は岡崎中学北の、はなふさ珈琲店迄の500m、

最も東の鹿ケ谷断層は、瓜生山から、銀閣寺・法然院・大豊神社・永観堂・南禅寺と哲学の道を散策し、

いつしか桃山断層となって、桃山御陵・御香宮まで彷徨う11km

この神楽岡断層と岡崎断層が、東から西へ矢印のように押されて、

れて起してになったのが、吉田山・真如堂・黒谷さん(金戒光明寺)だ。

慈照寺(銀閣)で隠遁を企てた足利義政にとって吉田山は、御所からの視線を遮る  格好の目隠し(衝立:ついたて)ではなかったか?

、、、というのが、ブラタモリ末端膨隆丘(まったんぼうりゅうきゅう:terminal bulge)の解説だった。

俺は、力学的に、スカート裾の襞のようなものだと思う。

 

八代将軍足利義政には、正室の日野富子との間に男子があったが、早世してしまった。※1

その後、飢饉や災害が相次ぎ、特に1461年の大飢饉は京都にも大きな被害をもたらし、

一説では賀茂川の流れが餓死者の死骸のために止まるほどであったとされる。

このような状況にも拘らず、義政は邸宅や日本庭園の造営などや猿楽、酒宴に溺れていく。

応仁の乱が始まったのが1467年、守護大名達の圧迫を受けた義政 側近衆は解体に追い込まれ、

手足となる家臣を喪失した義政は完全に政治への意欲を失っていった。

 戦乱当初、義政は中立を貫き停戦命令を出したが、結局、東軍の細川勝元に将軍旗を与えて、西軍の山名宗全追討を命令し、

東軍寄りの態度を明確にする。

次期将軍と見込んだ義視は、義政と富子との間に男子(後の足利義尚:九代将軍)が誕生した1465年以降は立場が悪化して西軍に逃げ込み、

山名宗全を頼った。(秀頼が生まれた後の秀次に相似 ※2)

そうこうする内、戦乱は後南朝の皇子まで参加するなど、収拾がつかない全国規模へと発展していく。

このころ、天皇と上皇が戦火を避けて将軍と同居するという異常事態が10年も続く。

その間、1473年 西軍の山名宗全・東軍の細川勝元の両大将が死んだことを契機に、義政は将軍職を子の義尚へ譲って正式に隠居した。

慈照寺銀閣の造営が1482年~だが、富子とも不仲となり、権力も何もかも放り出して引きこもった義政は、

銀閣寺に思うように金をかけられず、その完成を見ずに1490年に満54才で薨去した。

わが庵は 月待山の麓にて かたぶく空の 影をしぞおもう   慈照院 

慈照院殿喜山道慶は、義政の法名で、慈照寺の寺号の由来ともなっている。

「月待山」という風雅な名も、viewpoint (視座)が銀閣寺なので、

俺は、義政による命名だろうと思って調べたら、果たして、そのとおりだった※3

待の  東奥(ひんがしおく)に  如意ケ岳        (如意ケ岳≒大文字山・・・詠み人:俺)

 時の最高権力者でありながら、不如意な(思うようようにならない)人生だったけれど、

史上、義政ほど風流(もののあはれ)を解し、それを追究した権力者もまた  いない。

(以降の風流人は、第108代後水尾帝ぐらいだが、しかし、足利幕府はミリタリー:軍事政権の筈だ)

 

黒谷さん(金戒光明寺)の三重塔辺りから、真っ赤に沈み行く夕日を眺めて、黄昏(たそがれ)る事を、

日想観(じっそうかん:然上人黒谷さんで始めたんだろう)というが、

真如堂宗忠神社は、西に開けていなくて、日想観が出来ない。

つまり、末端膨隆丘があればこその日想観という関係にあるわけだ。

地形が、西に開けてなくとも、時に感じては、花にも泪を濺ぐ※4

時節柄、散る花を眺めて しみじみと感慨にふけるも あり ではないか、、、。

 

最近、一部の熱心な読者から、俺のブログが難しいという評判なので、

「全ては、時間の関数だ」というサブタイトルの解説をする。

歴史は時間の関数であり、人生も時間の関数であり、生命現象も時間の関数であり、宇宙も(ブラックホールも)時間の関数であり、、、

まとめて「全ては時間の関数である。」というのが、最近俺が、最も気に入っているフレーズだ。

例えば、物事に因果(cause and effect)があって、

関数で説明すると man and womanという関数に時間を投入して、

 f(x)=y  が man and woman (time pass by)=parents and children=familyとなり

関数が人生(世の中)で、時間xが変数という事なんだが、、、解って呉れるけ?

 

俺(今年)=還暦

宇宙(138億年前)=ビッグバン    

日本史(1467年)=応仁の乱    

和暦(2019年)=平成31年=令和元年

 

時間の関数で一番大事なんは、「時計の針は戻せない」ってこと。

時間なる変数が 一方通行で  元に戻すことは   なりまへんっていう現実やねんで!

と、俺は自分に言い聞かせております

 

 

 

 

※1

大文字送り火の起源は諸説あるが、早世した(義政と富子の間に生まれた)長男・次男義尚(1465~1489)および義政の乳母実母の鎮魂で始まったという説が最も有力だ。俺は、荒淫(やり過ぎ)で死んだという人を、日本史上足利義尚以外に知らない。花の御所(現在の烏丸今出川北西)或いは、相国寺(義政の祖父  義満が建てた七重塔があった)の方向、五山の送り火の中では、唯一 西方浄土を向いているその一方、義政は、大勢の庶民が飢饉で死んだり、武士が戦乱で落命したことに対しては、さほど鎮魂の気持ちなど無くて、自身の失政に対する反省も殆ど無い人ではなかったか?

 

※2

義視は義教(6代将軍)の子で、義政(8代将軍)の異母弟であり   一旦出家していた所、義政に子がない為に、次期将軍(つなぎの将軍)となるべく還俗させられ、富子の妹を正室に向えたので、生まれた子義材(10代将軍)は、義尚(9代将軍:義視が還俗した後に生まれた)の二重従弟にあたる。色々讒謗を受けたが、豊臣秀次のように一族が処刑されるという程の迫害を受けたわけではない。しかし このような相似形を見いだす事が、味気ない歴史の勉強に、味を付けるに違いない。

 

※3

最近、嬉しかった事。月待山の名は、大文字山に登るのを日課にしていた頃、20年程前に知ったのだが、 本稿を書く内に「きっと義政の命名だよね」とピンと来たんだ。

※4

春望の一節

国 破 山 河 在
城 春 草 木 深
感 時 花 濺 涙 
恨 別 鳥 驚 心

烽 火 連 三 月
家 書 抵 万 金
白 頭 掻 更 短
渾 欲 不 勝 簪

by 杜甫

国破れて山河在り

城春にして草木深し

時に感じては花にも涙を濺ぎ

別れを恨んでは鳥にも心を驚かす

烽火三月に連なり 

家書万金に抵たる

白頭掻けば更に短く

渾べて簪に勝へざらんと欲す

 

 

オマケ(大文字山の火床の金輪から西方を望む)

 

オマケ(鳥瞰)