おほくのあなのよにはありける

さればよと  みるみる  ひとの落ちぞ入る  多くの穴の  世にはありける     by西行

 

解釈

だから 言わんこっちゃない 」と  覗き込んでいる人まで 引きずり込んでしまう穴が  

 世の中には  いくつもいくつも口を開けているんだよなぁ〜

 

 

 

50年以上も昔、「スーダラ節」※1という俗謡が流行して、

わかっちゃいるけどやめられない」というひらきなおりのセリフが、人口に膾炙した。

つまるところ、西行法師と同じことを詠っていると思う。

 

世間には、誘惑が多くて、つい嵌ってしまう落とし穴が、彼方此方に仕掛けてある。

僕ぐらい 年を経て、良きにつけ悪しきにつけ失敗を重ねると、

嵌ったら大変な目に遭う穴が判ってくる。

西行法師の詠嘆では、「みるみるひとの落ちぞ入る」・・・

こわいもの見たさで穴を覗き込む人が続々落ちていく言っている。※2

ブラックホールでいうシュワルツシルト半径(重力場)以内に入ると、

抜けられなくなるというその半径が分からずに近づいてしまう

「抜けられないかどうかは、経験してみないと判らないさ」などと嘯いていて、

近づいたら最期、嵌って抜けられない穴がある。

現に覚醒剤の依存(アディクション)は、初回出来しまって、

リハビリテーション(アディクションから逃れる為)に大変苦労するという

大事なところなので、別の表現でなぞると、

覚醒剤の1発は、シュワルツシルト限界面の内側にある。

ギャンブル・アルコール・ニコチンなど、

合法なものにおいても、深刻な依存が形成される場合もある

「わかっちゃいるけどやめられない」と歌っている間は、

アディクションが、未だ深刻な段階ではないのだろう。

 

若いうちに、何でもやってみたらいい。

但し覚醒剤刺青には、近付かない方がいいと思う。

元に戻れなくなるものはやり直しが利かない(不可逆な)ので一生の不覚となる

 

芥川龍之介は、『侏儒の言葉』の中で、

「一旦自殺に魅せられると、その同心円から逃がれられなくなってしまう」

という意味のことを書いている。

おそらく、自死という深い穴の縁で、その深淵を覗き込んでしまって、

抜けられなくなったんだろう。(芥川は自殺を遂げた)

『侏儒の言葉』では、「畢竟

(ひっきょう;とどのつまりの意)という単語を多用したが、

つきつめて考える人の象徴的な言葉だ。

 

 

嘆けとて  月夜はものを  思はする  かこち顔なる 我が涙かな  by西行

 

西行法師(1118年~1190年)の嘆ずる「おほくのあな」に興味はあるが、

飢餓/貧困(浮浪者:ホームレス)/身分差別の連鎖なら、見ずに如かず(見たくも無い)と思う。

不幸のカタチは、夫々よく似ているからだ。

 

薄莫迦下郎(アテ字)の幼虫:アリジゴクの擂り鉢

子供のころに、何回か遊んでもらった。

 

 

 

 

 

※1

「スーダラ節」・・・ わかっちゃいるけどやめられない

青島幸夫 作詞

萩原哲昌 作曲

植木等  歌

作曲者の萩原は、まず植木の口癖でもあった「スイスイスーダララッタ~」のフレーズをメロディーにして、

植木の承諾を取りつつ、残りの部分を作った。非常に生真面目な性格の植木は青島が書いた歌詞を見て、

歌うことを躊躇したが、浄土真宗の僧侶である父の植木徹誠から

「『わかっちゃいるけどやめられない』は人間の矛盾をついた真理で、親鸞の教えに通じる」

「必ずヒットするぞ」と励まされた、というエピソードがある。

「わかっちゃいるけどやめられない」の先行フレーズは

「これじゃ身体にいいわけゃないよ」/「馬で金儲けした奴ぁないよ」/「俺がそんなにもてるわけゃないよ」

だが、その時代でさえ、飲む/打つ/買う だけに気をつけていたらよかったわけではなく、

他にもサラ金・暴力団・カルト宗教(集団)・薬物・性感染症その他 多くの落とし穴があった。

「わかっちゃいるけどやめられない」というのは、人間が自分を騙す言葉でもある。

シリーズの「無責任一代男」は、当時若者だった団塊の世代に強烈な影響を与えた。タモリやたけしが、そう述懐している。from wiki

 

※2

「みるみるひとの落ちぞ入る」のところの解釈は、異論があるかもしれないが、

僕が昭和の末期に読んだ時に、大岡信が「穴を覗き込む人が次々落ちていく」と訳した上で、

この部分に焦点を当てていて、当時、とっくりと腑に落ちたので、これを採用した。

だから言わんこっちゃない」は、奈落の底から聞こえるのだ。