日本で最初の公共土木工事

茨田堤(まむたのつつみ/まんだのつつみ/まぶたのつつみ)

仁徳天皇淀川沿いに築かせたとされる堤防であり。

日本で最初の公共土木工事といわれている。

日本書紀仁徳天皇11年の記事に、

天皇は、北の河の澇(こみ)を防がむとして茨田堤を築く

(天皇は洪水や高潮を防ぐことを目的として、淀川に茨田堤を築いた

との記述があり、茨田堤の成立を物語るものとされている。

古墳時代中期は、ヤマト王権が中国王朝および朝鮮諸国と積極的に通交し始めた時期であり、

ヤマト王権にとって瀬戸内海は重要な交通路と認識されていた。

そのため、ヤマト王権は4世紀末~5世紀初頭ごろに奈良盆地から出て、

瀬戸内海に面した難波の地に本拠を移した。

本拠となる高津宮上町台地上に営まれたが、その東隣の河内平野には、

当時、草香江(くさかえまたは河内湖)と呼ばれる広大な湖・湿地帯が横たわっており、

北東からは淀川の分流が、南からは平野川(現代の大和川)が草香江に乱流しながら流入していた。

茨田堤  施工前  縄文後期

上町台地の北からは大きな砂州が伸びており、この砂州が草香江(河内湖)の排水を妨げていたため、

淀川分流や平野川からの流入量が増えると、容易に洪水や高潮などの水害が発生していた。

新たに造営された難波高津宮は、食糧や生産物を供給する後背地を必要としていたので、

ヤマト王権は、治水対策の目的も併せて、河内平野の開発を企てた

そこで、草香江に流入する淀川分流の流路安定を目的として、堤防を築造することとした。

堤防は、当時の淀川分流の流路に沿って20km超にわたって築かれており

当時、この地方を「茨田」といったので、「茨田堤」と呼ばれるようになった。

茨田堤の痕跡は、河内平野北部を流れる古川沿いに現存しており、実際に築造されたことが判る。

このような長大な堤防を築くには、高度な築造技術を要したはずであり、

かなりの困難も伴っただろうと考えられている。『日本書紀』の仁徳天皇11年の項には、次のような記述がある。

どうしても決壊してしまう場所が2か所あり、工事難渋した。
このとき天皇は「武蔵の人コワクビ(強頸)と河内の人の茨田連衫子(まむたのむらじころもこ)の
二人を、河伯(川の神)に生贄としてれば成功する」とのた。
そこで早速二人が探し出され、それぞれの箇所に1人ずつ人柱に立てられることとなった。
コワクビは泣き悲しみながら入水していったが、コロモコはヒョウタンを河に投げ入れ、
自分を欲しければ、このヒョウタンを沈めて浮き上がらせるな。
もしヒョウタンが沈まなかったら、その神は偽りの神だ」と叫んで、ヒョウタンを投げ入れた。
もちろんヒョウタンは沈まず、この機知によってコロモコ死を免れた
結果として工事が成功した2か所は、それぞれ
コワクビの断間(こわくびのたえま)コロモコの断間(ころもこのたえま)と呼ばれた。

そのまま史実ではないだろうが、類似した状況が発生していたと推測されている。

京阪電車大和田駅の東北にある堤根神社の本殿の裏には、茨田堤の跡と推定される堤防の一部現存している。以上、Wikiより

茨田堤 施工国土交通省HPより

日本書紀茨田堤のコロモコの話が、好きだ。

コワクビが泣き悲しみながら入水していったという率直な表現や

コロモコが、人柱になることを真っ向拒否するところも、自然だ。

捨身飼虎のように自己犠牲を讃えるような、ひねったところ(宗教臭)が無く、

来世で聖者に昇華するという、方便(レトリック)を使うことも無く、

天皇の権威を高めるような奇跡が起きたり、怪力乱神を語ることも無い

結果として、コロモコは犠牲を免れ、工事が成功したのだから、生贄は不要だったのだ。

日本書紀の方が、素直に共感できる話ではないか

 

5世紀以降 仁徳期の治水事業により、河内湖の水域が減少するとともに、流入している大和川枝川等が河口に三角州をつくる。

 そして湿地・草原あるいは堤防敷となり、その後、河内低地の陸地化が始まる。

 

参考資料

大阪湾環境データベース

水都大阪

古田史学会報107号

紀元前約6000年–前約5000年ごろの縄文海進により海水が河内平野へ進入し、

現在の枚方市付近を北限、東大阪市付近を東限として、上町台地と生駒山地の間に河内湾と呼ばれる湾が形成された。

河内湾河内潟河内湖

縄文海進は、貝塚の存在から提唱されたものである。

海岸線付近に多数あるはずの貝塚が、内陸部で発見されたことから海進説が唱えられた。

当初は、日本で活発に起きている火山噴火や地震による沈降説も唱えられたが、

その後、海水面の上昇が世界的に発生していたことが確認され裏付けられた。

湾の北東岸には淀川が、南岸には大和川が流入し、三角州を形成していた。

大和川の流路は現在とは異なり、柏原付近で北へ転じ、現在の長瀬川を流れていた。

古事記』によると、神武東征で神武天皇は「浪速の渡」(なみはやのわたり)を越えて湾に侵入し

楯津(古事記編纂時の「日下の蓼津」)に上陸した。

 

比定される東大阪市日下は生駒山脈の麓であり、当時はほぼ山麓まで海が迫っていたことがうかがえる。

時代が下るにつれ、次第に上町台地から北方へ砂州が伸びていき、(土木学会で有名な天満砂礫層)

弥生後期~古墳時代に、河内湾口は現在の新大阪・江坂付近をわずかに残してほぼ塞がれ、潟湖の河内潟となった。

淀川と大和川の水によって、河内湖淡水化した。

河内湖は、淀川・大和川が運ぶ堆積物によってゆっくりと縮小していった

紀元後も河内湖は残存しており、4世紀–5世紀ごろには草香江(くさかえ)と呼ばれていた。

草香江は淀川・大和川の2つの大河川が流入してくる反面、

排水口はかつて湾口だった上町台地から伸びる砂州の北端の1箇所のみであり、

しばしば洪水を起こしていた。4世紀後期もしくは5世紀初期の仁徳天皇(オオサザキ大王)は上町台地上の難波に宮殿を置いたが、

草香江の水害を解消するため砂州を開削し難波の堀江という排水路を築いた

4世紀後期もしくは5世紀初期に仁徳天皇

茨田堤築造難波の堀江開削という巨大プロジェクトを推し進めたことは、

 

日本の土木工事史に特筆される成果だ