八百屋お七

俗信の流布祟りと言えば「八百屋お七」(やおやおしち:1668~1683)です 。

お七は、今で言えば中学二年生。 幼い恋慕の挙げ句に放火未遂事件を起こし

刑死(火あぶりの刑かどうかは不明)したとされます。

一途な悲恋として井原西鶴(好色五人女)によって取り上げられ、 後に浄瑠璃など芝居の題材となって有名になりました。

絵:岩田専太郎

ほぼ唯一の歴史資料である戸田茂睡の『御当代記』で語られているのは、

お七という名前の娘が放火し処刑されたことだけです。

資料が少ないため後年の作家が、さまざまな想像を働かせているようです

創拓社刊「香具師口上集」室町京之介口上。昭和57年初版。(市中引き回しの上、火あぶりの刑に処されたと脚色

はぁ~、その頃本郷二丁目に、名高き八百屋の久兵衛は、普請成就する間、親子三人もろともに、

旦那寺なる駒込の、吉祥院に仮住まい、寺の小姓の吉三さん、学問なされし後ろから、膝でちょっくら突いて、眼で知らせ。

これこれ、もうし吉三さま、学問やめて聞かしゃんせ、もはや普請も成就して、わたしゃ本郷へ行くわいな、

たとえ本郷と駒込と、道はいかほど隔てても、言い交わしたる睦言を、死んでも忘れてくだんすな。

それより本郷へ立ち帰り、八百屋商売するうちに、可愛い吉三さんに逢わりょかと、娘心の頑是なく、

炬燵の熾きを二つ三つ、小袖の小褄にチョイと包み、隣知らずの箱梯子。

一桁二桁登り行き、三桁四桁と登り詰め、これが地獄の数え桁。

チョイと投げたる窓庇、誰知るまいと思えども、天知る地知る道理にて、

釜屋の武兵衛に訴人され、是非無く地頭に呼びいだせられ、

その日のお裁き極まれば、葦毛のドン畜生に乗せられて、伝馬町から引き出され、

髪を島田に油町、辛き憂き目の塩町を、油屋お染じゃないけれど、久松町をとろとろと。

お七を見に出し見物は、ここやかしこに橘町。富沢町を引き回し。

姿優しき人形町、娑婆と冥土の堺町。

さても哀れや不憫やと、てんでに涙を葺屋町。

とりわけ嘆くは親爺橋、江戸橋越えて四日市、日本橋へと引きいだし、

是非もなか(中)橋京橋を、過ぎれば最早ほどもなく、田町九町や車町、

七つ八ツ山右に見て、品川表を越えるなら、ここが納めの涙橋、鈴ヶ森にと着きにける。

あまた見物押し分けて、久兵衛夫婦は駈け来たり、

これこれお七、これお七、これのうお七と言う声も、空に知られぬ曇り声、

ワッと泣いたる一声が、無常の煙と立ちのぼれば、

ここが親子の名残りなり、哀れやこの世の見おさめ、ハイ見おさめー。

絵:高畠華宵 

お七の年齢と裁判制度 ↓ 以下、wikipediaより

現代の「八百屋お七」の物語では落語などを中心に「当時の江戸では火付け犯は15歳を過ぎれば火あぶり、15歳未満は罪を減じて遠島の定めだった」とし、お七の命を救ってやりたい奉行がお七の年齢をごまかそうとして失敗するものが多い。人情話としては面白いが専門家からは疑問が呈されている設定であり、またこの設定は西鶴などの初期の八百屋お七物語には見られない

放火犯について15歳以下ならば罪を減じて遠島(島流し)にする規定が明確に設けられたのはお七の死後40年ほどたった徳川吉宗の時代享保8年(1723年)になってである。ただし、享保8年(1723年)以前にも年少の殺人犯については死罪は避けようという諸規定は存在したが、放火犯については明確な規定は無く、また『天和笑委集』第10章では13歳の放火犯喜三郎が火刑になった記述がある

最初期のお七の伝記である西鶴の『好色五人女』の八百屋お七物語では裁判の場面はない。『天和笑委集』では裁判の場面はあるがお七の年齢を詮議する記述はない。1715-16年の紀海音の『八百屋お七』や1744年為永太郎兵衛『潤色江戸紫』でもお七を裁く場面はない。しかし、お七の事件から74年後の馬場文耕の『近世江都著聞集』では裁判の場面が大きく取り扱われ、お七の年齢を15歳以下だと偽って助けようとする奉行が登場するようになる。馬場文耕の『近世江都著聞集』は後続の作家に大きな影響を与え、これ以降の作品ではお七の年齢の扱いで生死を分けることにする作品が続出してくる。馬場文耕の『近世江都著聞集』には史実としてのリアリティはまったく無いが、講釈師文耕ならではの創作に満ち溢れ、お七の年齢詮議の話も文耕の創作であろうとされている。

以上、wikipediaより。

お七の火付けは、実際には小火(ぼや)だったものを芝居では江戸中火の海にした脚色されます。

お七の生まれは1666年 丙午(ひのえうま:陰陽五行で、十干のは陽の、十二支のは陽ので、火が重なる)とされ、

その後、芝居の興行が盛んになるとともに

 丙午生まれの女性は、気性が激しく、カカア天下で、家長になるべき夫の命を縮めると言い

夫を食い殺す」などの俗信流布され間引き(女の赤ちゃんに限る)が増えます。

統計が残っているところでは、1906年の出生数は前年比96%

1966年は前年比73%と大きく落ち込みます。

全ての日本人が、俗信(フィクション)の影響を有形無形に受けている証拠と言えます

憤怒の大魔王(崇徳院③)参照

ころが、昭和63年ないし平成元年頃から、「ひのえうまの祟り」につき

マスコミが突如として言わなくなりました

 それは、秋篠宮妃紀子様(1966年生)が、お妃候補になった時期です。

菊のカーテンがひかれたのです。

結果、丙午生まれの紀子様が、男系男子を産み、皇統の危機を救ったと言えます。

 2026年の出生数は、前後の年と比べて落ち込むのでしょうか?