憤怒の大魔王(崇徳院③)

絵:歌川国芳

崇徳院(1119~1164)の話をするにあたり、最初にその時代背景から・・・。

藤原氏による摂関政治が永く続いた後に、
白河法皇は史上初めて「院政」を執くことで、藤原氏から皇室に実権を奪い返します。
その後、息子(堀河天皇)・孫(鳥羽天皇)・曾孫(崇徳天皇)三代43年間
にわたり、傀儡(パペット・・・天皇)を操ります。

ウワサでは、白河上皇は、自分の種を妊った養女(待賢門院)を孫の鳥羽帝に嫁がせた結果、産まれた第一子が崇徳だといいます。
鳥羽上皇が崇徳天皇を実子ではなく、白河法皇の子だと信じ「叔父子:おじこ」と呼んだという話は、
「古事談」という書物に記されていて、
その真偽については現在でも論議が続いている所です。
しかし、鳥羽上皇の崇徳上皇に対する仕打ちや、保元の乱へ至る経緯を考えると、
この話は概ね事実ではないかと思います。
鳥羽上皇はあらゆる局面において崇徳天皇を嫌います。
そしてその一番の根は「崇徳天皇が白河法王の子」という
ウワサを事実と考えなければ理解できないような凄まじさです。
多くの書が、二人の関係を確執という言葉で表現していますが、
どちらかと言えば、鳥羽天皇による崇徳虐という表現が当たっています。
崇徳天皇自身には、殆ど非がないのではないでしょうか?
白河上皇により鳥羽天皇は弱冠二十歳で退位させられ、
五歳の崇徳天皇が即位します。
譲位させられた鳥羽上皇は、白河上皇存命の内は何の権限も持てず、
天皇でもなく「治天の君」(院政の主)として権力を振るうことも出来ません。
そして我が子を「叔父子」と呼ぶのです。
崇徳帝にしてみれば、総て与り知らぬ所です。

(平清盛も白川法皇の子という説がある)

まるで「華麗なる一族」の万俵大介と鉄平の確執のようです。
「万俵鉄平のモデルは崇徳院だ!」という指摘が、

山崎豊子氏に対して為された例を私は、知りません。実に、イージーな指摘ですが、、、。

それはさておき 、 崇徳にとって雅仁親王(後白河天皇)が同母弟、躰仁親王(近衛天皇)は異母弟です。
父の鳥羽天皇は上皇になりましたが、皇室の権限は依然曾祖父の白河法皇が一手に握っています。
しかし、大治四年(1129)白河法皇が七十七才で崩じると情勢は一変します。
鳥羽上皇が実権を掌握し、異母弟にあたる鳥羽上皇の第8皇子躰仁親王(近衛天皇)が皇太子となります。

・・・ついに鳥羽院の逆襲が始まったのです。
崇徳天皇は、2年後には鳥羽上皇から譲位を強要されて、2歳の近衛天皇が即位します。
この時、廃帝弱冠二十歳、英邁で才能溢れる崇徳は、以降新院と呼ばれ、隠居させられます。
まさに、攻守所を代えて、歴史は繰り返したのです。
久寿二年(1155)近衛天皇が17歳で崩じると、
崇徳院は我が子重仁親王を即位させようと画策しますが、
鳥羽上皇によって阻まれ、同母弟雅仁親王(後白河天皇)が即位します。
翌、保元元年(1156)鳥羽上皇重体の報に崇徳上皇は鳥羽殿へ赴きますが、
側近たちに遮られ父への別れも出来ないまま、引き返します。
法皇死後の大蔡にも、崇徳上皇の参列は許されません。
ここに至って怒り心頭に発した崇徳帝は「保元の乱」を引き起こし、
武力により弟後白河天皇からの覇権奪還を試みるのですが、
崇徳は敗れて讃岐へ流されます。

崇徳院は8年間を讃岐で過ごし、長寛2年(1164)46歳で崩じます。
辞世「思いやれ 都ははるかに沖つ波 立ちへだてたる心細さを」
(崇徳帝の死については、暗殺説もある・・・讃州府誌によれば、二条天皇の命を受けた讃岐の武士、三木近保が刺客だという)
地元では長らく暗殺説が信じられていますが、病死説もあります。
晩年をこの地で過ごした崇徳帝の旧跡は、香川県下に数多く残っています。
中世に至って怨霊としての姿が定着した崇徳院は、
近世になっても恐怖の対象とされたようで、
上田秋成の「雨月物語」の冒頭「白峯」の章 では
この地へやってきた西行法師(1118~1190は崇徳院と一歳違い)が読経をし、魂を慰めるために和歌を詠むと、
崇徳の霊が現れて西行に怨みを語る場面があります。 (5/9ブログ参照)
つらつらと重なる恨みを語る崇徳に対して西行は仏法を説きますが、
会話は噛み合わないままに夜が更け往くのです。

讃岐で崇徳上皇は、3年の歳月をかけて五部の大乗経
(華厳経・大集経・大品般若経・法華経・涅槃経)を写経し
これを父鳥羽帝の墓前に供えてほしいと都へ送りますが、
同母弟・後白河天皇の近臣・藤原信西(しんぜい)は
呪詛が込められているのではないかと疑って写本を送り返します。

三年の苦労を無にされた崇徳院は憤怒の形相で激昂し、
こちらが罪を悔いているのに天皇がどこまでも許してくれないのであれば、

これは今生の恨みにあらず!後世までの敵(かたき)であるとして、
我願わくば五部大乗経の大善根を三悪道に抛(なげう)って日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん

と、舌を噛み切り、流れる血で突き返された五部の大乗経に呪詛の誓いの言葉を書きつけたといいます。
それ以来、髪も爪も切らず伸ばし放題にし、凄まじい形相になっていくのです。
状況視察に都から派遣された平康頼は、
「院は生き乍ら天狗となられた」と報告しています。(保元物語・平家物語)

『椿説弓張月』より崇徳上皇が讃岐で崩御し、怨霊になる瞬間を描いた一場面

絵:歌川芳艶

崇徳の陵墓は白峰山(しらみねさん―香川県坂出市)に造られましたが、遺体は葬儀に関する朝廷からの指示を待つ間、木の下の泉に20日間塩漬けにされます。
その間、全く様子が変わらず生きているかのようであったといい、
死骸を焼く煙は都の方にたなびいていったとも伝えられます。
また、遺体運搬中、白峰山裾で夕立に見舞われたため石の上に棺を降ろした所
その柩からは夥しい量の血が流れ出し、柩を置いた台も真っ赤に染まり、
「二十日経っても死にきっていない」と人々が驚愕したという話と台石も残っています。
たなびいて行った煙のせいかどうか、崇徳院の死後、都では凶事が相次ぎます。
二条上皇の夭折、天然痘の流行、都の大火、
平治の乱による藤原信西(五部の大乗経の受け取りを拒否した)の死、
源義朝(保元の乱で後白河側に付いた)の死、
都の人々は、崇徳上皇の怨霊のせいだと怖れ戦き、
朝廷も怨霊を鎮めるため、死後3年目に「崇徳院」の諡号を贈りますが異変は治まりません。
「崇徳」という呼び名は死後の諡(おくりな)です。
ここでは、便宜上生存中も崇徳天皇・崇徳院として呼びます。

 

古来、日本では本来の天皇の名を口にするだけでも恐れ多いことで、
天皇在位中は「今上天皇」
廃帝後は「住所+院」
と呼ばれる慣わしです。

日本史における怨霊物語の内で、最も強烈に恐れられたのはこの崇徳院の怨霊です
以後、天災や飢饉のような、都における大きな凶事は、多くが崇徳院のせいにされ、
ことあるごとに、崇徳院の祟りではないかと噂されました。
江戸時代になってからも、歴代の高松藩主は白峰陵を手厚く祀っています。
怨霊に対する畏怖は近代の皇室においても同様で、慶応四年(1868)戊辰戦争に際し、

まだ江戸へ遷都する前の明治天皇は、崇徳院の怨霊を鎮め、朝廷の守護神となって貰うため

皇宮近く(今出川堀川東入ル)に白峯神宮を造営し、崇徳上皇の命日に讃岐の白峰から崇徳上皇の神霊を迎え入れました。
ここに、崇徳院は、死後700年を経て、漸く京都に帰ることが出来たのです。
昭和天皇は1964年の東京オリンピック開催に際して香川県坂出市の崇徳天皇白峰陵に勅使を遣わし、崇徳天皇式年祭を執り行わせています。

おそらく、2020年の東京オリンピック開催に際しても、先例に倣って、新天皇崇徳天皇式年祭を執り行わせるでしょう。

怨霊などという風評は、いかにも日本らしいと思います。
例えば、平将門も東京や京都に鎮魂の社があります。
菅原道真も各地に天神社を奉っています。

災い転じて福となす怨霊を鎮魂して、守護神に替えるという知恵です。
祟りを畏れるあまり、鎮魂社が増えるのです

また、これは誰でも気付くところですが
」る・・・アガメル
」る・・・タタルとは
意味も成り立ちも全く違う漢字なのに、字面(ジヅラ)がそっくりです。

崇徳院はストクイン・ストクイン・ストクインはヒトクイ・人喰いに通ず
人喰い」とは、あな恐ろしや
という風評の拡大がその原因だとする説に、私は賛同します。
怨霊には形が無く、目に見えず、悪さをする全てのモノが特定の怨霊と結び付けられるので、
疑心暗鬼が巨大化して襲いかかるのです。怨霊信仰と、言霊(ことだま)信仰が風評に乗り
相乗効果で、怨霊が畏怖されています。
そして、崇徳院に限らず、天皇以下すべての日本人が
好むと好まざるとに関わらず、怨霊の影響を有形無形に受けているのです。
崇徳帝は幼時から和歌を好み、歌会・歌合を頻繁に催した事が記録に残っており、
在位中、いくつかの歌集を撰進させています。
譲位後もそれは続き、「久安百首」・「詞花和歌集」などが残っています。
小倉百人一首に撰ばれている
瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ
はこの帝の作であり、激しい恋の歌として、知られています。
また、保元の乱がまさに、貴族政治と武家政治との潮目(ターニングポイント)であり、
崇徳院がそのキーマンだということです。

 

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