問題の解(ソリューション)があるかどうか、それが問題です。

答えがあるかどうか  わからないのが、人生の諸問題(実戦)だ。

マゼランの西回りの世界一周を題材に、これを説いてみようと思う。

マゼラン は、西回りで、インドを目指して旅立ったポルトガル人航海者である。

1519年スペイン王の信任を得てスペイン船5隻の艦隊を率いて スペイン・セビリアを出発したマゼランは、

南アメリカ大陸南端のマゼラン海峡を発見して 太平洋に到達した。

マゼランは、途中1521年フィリピンで戦死したが、残された艦隊が1522年に史上初めての世界一周を達成した。

 

 

5隻のマゼラン隊は、(現代ならブラジルからウルグアイを経てアルゼンチンあたりの)

南米大陸東南の海岸線に沿って、航海を続けて、

ラプラタ川の河口に来た。

現代のブエノスアイレスのあたりだ。

河口と言っても、アマゾン川に次いで、南米第二の大河であるから、

川幅が10キロ以上もあって、

対岸が、微かに見えるが、海峡かどうかは、わからない。

水は、塩辛い。

カモメが飛んでいる。

岸や島が全く見えなくても、カモメがいれば、陸が近くにあるということだから、

遠洋の航海の末にカモメを見たら、船乗りの気持ちが安らいだはずだ。

ラプラタ川を海峡だと仮定して、手前の陸地沿いに、十キロ程も遡った所で、対岸が迫ってくる。

バケツにロープをつけて、水を汲むと、果たして、淡水である。

そこで、初めて海峡ではなく、大河の河口を遡っていたことに気付き、

再び、5隻の船隊は、

河口まで戻って、探険を続ける。

迷路の壁の右なら右壁のみを伝って、出口を目指すような気の遠くなるような作業だ。

河口の場合は、鳥趾状の三角州があったり、底は、砂や泥なので

座礁しても、船底を傷めることはないが、

岩礁を避けて、注意深く航行しないと、沿岸部は、危険が多い。

ラプラタ川の河口は、ラプラタ湾になっているのだが、

事前にマゼランが仕入れていた情報では、

「ラプラタ湾の奥のあたりから、西の海に出られる」

というものだった。

ラプラタ湾の奥を探索して、水道ではないことが判明したので、

さらに、上の地図の矢印のように、幾つも湾をアタックしては、

空しく、海峡ではないと判明するということを繰り返した挙げ句、

食糧が残り少なくなり、高緯度の冬が近づいてきた。

「ラプラタ湾の奥のあたりから西の海に出られる」という仮説は否定されたが、

スペイン国王フェリペの信任を得ている以上、簡単にあきらめて帰るわけにいかない。

又、マゼランは5隻の船団の隊長だったが、

マゼランだけは、よそもの(ポルトガル人)で、他の4隻のスペイン人船長は、

すきあらば、反逆を試みようとしていた。

それまでも、反逆者を処刑していたが、

この期に及んで、食糧備蓄を最も多く積んだ船が1隻、丸ごと、

マゼランについていけないとして、帰国してしまった。

窮地に追い込まれたマゼラン隊長は、

 

冬を  南米大陸の南端のパタゴニアで、越すことに決定した。

残り僅かになった食糧を切り詰めて寒さに耐えたが、

(西の海に出られる実績)を得ていなかった

太平洋に抜ける水道(後のマゼラン海峡)迄、僅か数マイル。

解(の存在)が判別しないというだけの理由で、高緯度(南緯50°)のパタゴニアで、二冬過ごした。

 
  ラプラタ湾の探索時とは、うって変わって、

マゼランには、余裕も猶予もなくなった。

僅か5日の期限で、出かけた2隻の探索船は、

岩礁も多く、狭い湾か?水道か?  はっきりしない水路の奥を、

干満があるということを頼りに、進んで行った。

4日目に帰ってきた2隻は、

なんと、祝砲を打ち上げているではないか!!

マゼラン海峡の発見」だった

この後、1隻を難破の為に放棄して、3隻の船団で、フィリピンに辿り着くまでの、

99日間は、新鮮な水も野菜もない、かつて無い厳しい旅が待っていた。

しかし、ほとんど嵐に遭わずに横断した海を、太平洋と名付けた。

 

 

 

この時代背景を言えば、

1492年にコロンブスが、カリブ海から、アメリカ大陸に到達

1497年バスコダガマが、喜望峰(アフリカ大陸最南端)に到達

1500年 バスコダガマの第二回航海の時、大西洋を横断して、ブラジル(南米大陸)を「発見」した後に、

インドやイスラム商人の貿易港などを、武力で降伏させながら、制圧して、各地にポルトガルの出先機関(要塞)を作って行き、

これが、後々に、西洋人がアジアを植民地にするモデルとなって行った。

1513年にスペインの探険家バルボアが、パナマ地峡を横断して、ヨーロッパ人として、初めて、太平洋を「発見」した。

この時は「南の海」という名で、マゼランが1520年に「太平洋」と名付けたとされる。

「天動説」を唱えたコペルニクスは、1473年生まれで、1543年に没した。

ローマ教皇は、天動説を認めていなかったし、

大西洋を西に横断して、南米大陸の南端から、太平洋に抜けるコースがあるということは、

未だ、仮説に過ぎなかった

また「西の海」のさらに西にインドがあるということも仮説に過ぎなかった

つまり、解があるかどうかは、分かっていなかった

当然、判別式(前例・先駆者)もない

(二次方程式y =ax²+bx+cに、実数解があるかどうか、、x 軸と交点を持つかどうか、判別式 D=b²-4ac≧0であれば実数解があるのでした)

解の存在問題、マゼラン隊は疑心暗鬼の末に仲間割れを起こした

 コペルニクスは、惑星の軌道が、円だと想定していて、

ケプラーが、惑星の軌道は楕円軌道であることを主張したり、

ニュートンが、万有引力の法則を体系付けるのは、

コペルニクス以後、100年以上も、後の話だ。

マゼラン隊は、
1519/9/20に5隻の船隊(帆船ヴィクトリア号他)と237人の乗組員を率いてサンルカル・デ・バラメダ港を出帆した。1520/9/20にマゼラン海峡を発見、ヴィクトリア号他2隻が通過し、南太平洋の横断という偉業を成し遂げた。その時に、18個の砂時計を船に積み込んで航海術(ナビゲーション)に使用していた。時刻の補正は、正午に太陽が天頂に来ることを利用していた。

なお、マゼランの5隻の船隊は、
・サンティァゴ号(75t、32人) マゼラン海峡で難破、
・サン・アントニオ号(120t、60人) マゼラン海峡で逃亡し帰国、
・トリニダート号(110t、55人) 香料諸島で香料(丁子)を積み過ぎて沈没、
・コンセプシオン号(90t、45人) セブ島で乗員不足で焼き捨て、
・ヴィクトリア号(90t、43人) 世界1周航海を達成

・最後にヴィクトリア号で帰還したのは、僅かに18人/237人で、 208人/237人は壊血病で死んだとされる。

壊血病は歯が抜けたり、出血したりして最悪は死に到る病気で、大航海時代は海賊以上に恐れられた

原因がビタミンC不足と分かったのは20世紀になってからだった。

(坂本竜馬の姉は壊血病で亡くなっている)

 

 

 

さて、私もまた、「マツタケ人工栽培究極の会

の会合に出ているが、(前人未踏のマツタケの人工栽培という)フロンティアに踏み込む際に、

マゼラン隊の裏切り船長(最大の食料備蓄とともに帰国した)のように、

しばしば「土台から無理では?という疑心暗鬼を抱く

つまり、マツタケの人工栽培においても、存在問がある。

また、解が存在するとしても、地球は丸いとか、壊血病の原因はビタミンC不足であるとかのような

ブレイクスルーエポックも必要であるし、

チャート(海図)のどのあたりを進んでいるというチャートコンパス(羅針盤)も必要だと思う。

 

記:野村龍司